居合わせる

 偶然とは恐ろしいもので、片方にとっては忘れられないことでも、もう片方にとってはそうではない。そんな組み合わせが鉢合わせになることがある。

 記憶というのは時間で摩耗する。それは仕方のないことだ。石を羽箒で撫でるようにゆっくりと、しかし確実に削り取っていく。記録のように何かに刻まれるわけではない。脳髄という肉塊は、電気のやり取りという流動的で曖昧なものに頼って記憶を沈殿させている。


 難しい話だ。

 片方にとってはその身に刻まれた電流も、もう片方にとっては細胞の間を流れた静電気でしかない。



 真っ昼間のバーカウンターに座っていた時のことだ。

 そこは都会の瀟洒な店で、ガラスの向こうに街並みを見下ろせる場所にあった。我が家で使っているボロ椅子を三十個集めても、その店にある椅子一つと値段が並ぶことは無いであろう高級感を尻に敷いてとても居心地が悪い。空間に染み付いている、燻っている煙草に近い匂いは恐らく葉巻のそれ。磨かれた机はイミテーションではない木製だ。箱代の安い建物になら必ずある野暮ったい空調は見当たらず、天井には洒落た三枚の透明な羽がくるくると回っている。

 一言で言えば、高そうな店だ。


 私は酒を飲まない。飲めないのではない。飲まないようにしている。

 これは付き合い上仕方なく座っていた時の話であって、自分から飲みに行くことは絶対にない。


 私は顔が幼く小柄な上に、バーに行くなど聞いていなかったものだから服装も整っていない。見た目はカジュアルそのもので、まるで高校生が居酒屋に連れてこられたかのような有様だ。悪いことにそのバーはそれなりにドレスコードがある店のようで、バーテンダーが入店した私達をみるなり大層眉をひそめていた様子を克明に覚えている。

 脳に刻銘されている記憶、というわけだ。



「それでさぁ、くろかわちゃん」

 私のことをちゃん付けして呼ぶ人は多くない。成人にもなった男性がちゃん付けされるケースは、年上の同性から誂われている時くらいだ。つまり、まぁそういう間柄である。正直私はあまり接したくないのだが、付き合いというのは必ず付きまとう。困ったものだ。

 彼は行き着けだというバーに私を連れてきて、慣れた顔つきでバーテンに挨拶をする。バーテンは私と同じくらいの年齢で、慣れてこそいるがまだ新人の域を出ないという雰囲気だ。とは言え店の空気に育てられたのだろう、上品を上手く装っている。


「オレねぇ、困ってんのよ。助けてくんない?」

「飲みませんよ」

 まだ言ってないじゃぁ~ん、と大げさに仰け反る男性。かなり鬱陶しいが、大体の人間は私にとって鬱陶しいので程度の問題でしかない。


「具体的に何がどう困ってるのか話せる範囲で話してください。話せる範囲で対応ができないならそれでお仕舞です」

「うーん、どこから話そうかな……バーテンさん、取り敢えずいつものやつ、二杯ちょうだい。彼飲まないけど、人数分は頼まないと駄目でしょ?」


 はぁ、と困り顔で頷く店員の男性。

 どうしたものかと二人で顔を突き合わせる。


 しばらくして出てきた酒の名前は覚えていない。我ながら興味がなさ過ぎる。当時は追い出されやしないかとばかり考えていたが、昼間で他に客もいないということで見逃されたのだろう。

 今にしてみれば、昼間に高級バーなんてやっているのかと少し不思議に思う。



「家にさぁ」

 そういって話し始めた男性は両手を顔の横まで上げて、手の甲を見せる。指先は下方向に柳の葉の如く流す。

「出るのよ」

 おばけのポーズのつもりだろう。


 幽霊と柳が接続したのは江戸時代辺りからで、足が無いのもその当時の画工がそう描いたからだ。そして、私の目の前の男性が取っているポーズもその江戸の頃に作られた絵から由来するとかなんとか。


「はぁ」

 気の抜けた返事しかできない。

「で、それを除霊して欲しくてさぁ」

「あの、私、占いとか除霊とかやってないんですけど……」


 見えるんでしょ? と大仰に顔を顰める男性。


「Oくんの行方不明当てたって話聞いてるよ? あとM爺さんの鏡とかさ」

 言いふらしたのは誰だ。知り合いの中に一人思い浮かぶ顔があるが、今までの登場人物にはいないので割愛する。


「見えません。話聞くだけですよ。解決できそうになきゃ手は出しません」

「連れないなぁ。お兄さんもそう思わない?」

 いきなりバーテンさんに話を振る男性。いやそういうの止めなよ、とは言い出せない。言うのも面倒だ。話が伸びる。

 大体、幽霊話なんて誰が信じるんだ。信じて喋っている私たちは完全に頭のおかしい人間に見えるだろう。


「まぁいいや。あのね、家に帰ると毎日出てくるのよ。ちょっと野暮ったいというか、垢抜けてない感じの女の子。解る?」

「はぁ」

「そりゃ中古のそんなに高い家じゃないよ。でもさ、事故物件ってわけでもない。全然見覚えない女の子が出てくるっておかしいじゃない?」


 見覚えがない。見覚えがないだと?


 話が見えてきた。


「でね、スカートの丈がこんくらいで」

 身振り手振りでその女性の姿形を説明してくれている。そこは重要ではないので、聞いているふりをしながら聞き流していた。


「っていう感じで、鏡の前に立ってるのよ。で、どうなの。祓えそう?」

「無理だと思いますよ。それ、家に居ませんから」


 私は素っ気なく返す。 


 どういうこと? と首を傾げる男性。リアクションの大きい人だ。


「香水無し。聞いた限りでは女性というよりも女児の服装ですね。で、それが身体のサイズに合わせて伸びている。年の頃は二十歳半ば。まぁ、あんまり重要じゃありません」

「そう、え?」

 重要じゃない? 重要じゃない。


「臭いがね、あるんですよ。独特の臭いが」

「におい?」


「家と言いますか、人と言いますか。特有の臭いです。誰にでもあります。あなただけじゃない。そこのバーテンさんもありますし、私にもあるでしょう。家族だと臭いが近づきます。酒は詳しくありませんが、原料や製法が似ていると同じような匂いになるんだとか。まぁ、そういう『系統』『群れ』特有の、もっと人間らしく言えば『イエ』の臭いです」


 実は、これはかなり困った臭いだ。落ちない。流れない。しかも住む家や環境が変われば変化する。だから旧来の友人の判別には使えないことが多い。


「家? つまりどういうこと?」

「本当に、忘れてるんですね?」

 念を押す。刻銘な記憶が存在するかどうか確認する。正気を疑う。


 忘れる?

 嘘だろ?

 本気か?


「血とゴムとガソリン。かなり臭いんですが、それに隠れてイエの臭いがします」


 奇しくも、そこのバーテンダーさんと同じ匂いです。


「え?」

 理解が追いついていないらしい。それもそうだ。説明してない。

「誰かを轢いた覚えがありますよね?」

「いや、え? 待って。それなんで?」


「同じ感情を持ち続けていると同じ臭いが続きます」

 多分私もこの先一生同じ臭いだろう。

「ですから、あなた……バーテンのお兄さん。よく我慢できますね? 私ならもうちょっと早いタイミングで殺していると思います」

 鈍器もたくさんありますし、と酒瓶を指差す。


 完全に置いてきぼりになっている二人を差し置いて、女児のような服装の女性と向き合う。

「二十年くらいでしょうか。その頃に人を轢いた思い出は、もう忘れられてるみたいです。忘れられるのは悲しいでしょうね。でも忘れられるんですよ、必ず。残念です」

 記憶は摩耗するものだから。感情で不出来な脳髄に刻むしかない。


 だから、どうでも良いと考えている人間はすぐ忘れる。


 男性に再び向き直り、煩わしさを隠さず問いかける。

「話、整理しないとだめですか? 面倒なんですけど……取り敢えず、そこのバーテンさんへ向かって床に頭擦りつけて謝るくらいはしたほうがいいですよ。私ならそれくらいはします。妹さんかお姉さんか、そこまではちょっと判断利かないんですけど」

 私は人の年齢の見分けが極めて苦手だ。


「二十年くらい前に人、轢いたでしょう」

 ずっと臭っているから、正直あまり接したくない。

「……ひいた……」

 男性は顔を真っ青にしている。


「彼女は、」

 虚空を指さしてしまう。しまった。逆の方向から説明しないといけない。

「じゃない、えぇと。あなたが轢いた女性。そのバーテンさんの血縁の方ですよ」

 

 だから、私に解決は無理です。

 あとは、お二人でごゆっくり。


 そう言って、私は席を立った。


「幽霊って、誰かのイメージの中でなら成長したり年取ったりできる個体もいるそうです。まぁよくは知らないんですけど」


 二人の顔は対照的だった。

 片方は真っ青。

 もう片方は真っ赤。


 よく気付いた時点で殺さなかったものだ。あのバーテンのお兄さんを今でも尊敬している。



──────────────────────────────────────



「それ本当の話ぃ?」

 久方ぶりに会った友人は少し酔っ払っている。片手にはコンビニの安酒。よくもまぁこんな寒空の下で酔おうと思えるものだと感心する。私が世話をしなかったら最悪死ぬだろう。


 真冬の深夜、公園のベンチに座る成人男性二人。通報されないだけ良かったと思う。


 学生を辞めた辺りで遠くの実家に帰ったそいつは、遠路はるばるやって来てどうでもいい話をせがんだ。どういう意図かはよくわからないが、ずっと前からよくわからないやつなので、よくわからないままでも別に気にならない。


「いや、作り話。よくある話をいくつか繋げたやつ。怖い話聞きたいって言ったのお前だろ」

 遠くから訪ねて来て、何を聞きたいかと問えば「怖い話」ときたもんだ。下らない。素面で応じるこちらの身にもなって欲しい。


「ふーん。ところでオレの臭いってどうなの」

 覗き込んで来る友人。いつも距離感が近い。嫌ではないのが友人たる所以だろう。

「旅行でそっち行った時と似たにおいがする」



「それよりお前、Oさんのことや爺様のこと言いふらしただろ」

「ごめんって。真に受けるやつが居合わせるとは思わなかった」


 まったくだ。

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