誘惑

 誰かに誘惑されるという経験は人を不快にさせることはほとんどない。

 今回は稀なケースだ。



 今朝のことである。


 私はアイマスク代わりにタオルを頭の上半分に当てて寝ている。ちょっとした奇習だと自覚はあるが、アイマスクは耳が痛くなるし、寝相はかなり良いので眠っている最中ずれることもない。弊害として、起きた瞬間の視界が皆無ではあるのだが、そんなことで困りはしない。上半身を起こせばタオルは落ちるし、手で軽くどかしてやれば事足りる。

 普段はその無害な習慣が、今朝だけは少し問題になった。


 意識だけが先行して覚醒する。こういう時は概ね何かある場合だけだ。またか、とうんざりする暇もなく、顔に何かが触れる感触がある。

 手、だろう。脳裏へとそのイメージがダイレクトに伝わる。

 ぺたぺたと触るその手の持ち主は不明だが、とにかくしつこい。

 こちらが覚醒しているのは意識だけなので、所謂金縛り状態だ。


 頭の中で「鬱陶しいから止めろ」と念じても、一瞬止まるだけでまたすぐに触り始める手。

 温かくもなく、冷たくもない。タオル越しに感じられる感触は人肌のそれで、体温は測れずじまいだ。


「何の用だ」

 聞けば、手の主が……恐らく手の主だと思われる声が応える。

「こっちに来ない?」

 年頃は若い。音からして恐らく女。もしくはそれを模した何か。


 こっちってどっちだよ、と悪態を付きながら、意識の中にだけある背中の腕で、私の顔を触る手を払い除け、そして押し返す。

 行き先も明確にしない、こちらのメリットも提示しない、そんな状態で勧誘するとは、交渉の何たるかが全く判っていない証左だ。

 くだらない茶番に付き合う理由はない。


 手を押しやると、ようやく体の自由が利くようになる。

 普通の金縛りにはあったことがない。今回も、幻聴か幻覚か、それともよくわからないものの仕業か、そういう類いのものだった。


 あの時頷いていたらどうなっていたかは解らないが、積み本を消化するまでどこかに行くわけにはいかない。

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