揃っている

 怖いものがある。

 怖いものが嫌いだと何度も書いているので、当然の如く怖いものがある。


 姿見鏡だ。


 さて、鏡が怖いといえば、鏡恐怖症もしくは醜形恐怖症が俎上に上がるだろう。

 そうではない。


 確かに顔の作りが見目麗しいとは言えないが、恐怖症になるほどではない。それに過剰気味な自意識も持っていない。

 鏡恐怖症、というわけでもない。別に全ての鏡が怖いわけでもない。オカルトに触れているとよくある二重鏡に写る何かが怖いわけでもない。今のところ特に害は無いからだ。


 ただ、姿見鏡が怖い。

 何故か。

 実害があったからだ。



 それなりに昔の話である。


 引っ越しの手伝いに行って小銭を稼ぐ。男性ならままあるシチュエーションかもしれない。秋の終わりにからりと晴れたその日は絶好の日和で、体を動かして上がる体温も冬の入口に吸い込まれていく。庭に生えた柿の木はうら淋しげに葉を揺らしており、その実は既に落ちてしまったあとだ。


 平屋である。しかも、そこそこに大きい。


 聞けばそれなりに歴史のある家だそうで、戦前の頃には随分と使用人なんかもいたらしい。今でこそ寂れているが、ある程度名の通った家だったそうだ。

 だった。過去形である。今では一人住まいである。

 家主は当時六十過ぎの男性。男やもめの老人一人、こんな大きな家は要らぬと断じ転居を決めたそうだ。


 駅からもバス停からも遠く、車無しには山手線にも乗れない。それはそれで良いと思っていたが、孫の顔が恋しい。どうせ使い道のない金はそこそこあるんだ、残りの人生はもうちょっと便利なところに住もう。そう考えたそうだ。


 理由はまぁ、何でも良かった。ただその人物は私にとって恩師の師、つまり私は孫弟子にあたるわけで、手伝ってくれと言われたからには断る選択肢が無かった。

 その男性は別段、教鞭をとる仕事をしていたわけではない。ただ少しばかりとある芸が得意なので、それを人に教えていた。これも今となっては過去形となってしまった。


 とかく、古くて大きい家だったと思って欲しい。


 弟子たち数人と老人の孫娘でもって、荷物を運んだり選別したりと忙しく働いていたある時。

 奥の間にある和室が未だ開かれていないことに気付いた私は、家主に問うた。

「あの部屋は、入らないと駄目ですか?」

 妙な聞き方だと感じたらそれは正解だ。

 何故なら、臭ったからである。

 入りたくない、あわよくば何も感じない人たちに入ってもらって、そちらで処理して欲しい。そう思っていた。頷かれればじゃあ別の人を呼んできますね、と言うつもりでいたのだ。

 だが、アテが外れた。

「あぁ、そこね。君に入ってほしくて呼んだのよね」


 確定だ。曰く付きの部屋。


 おおよその予想はついていた。

 家の天井や柱には子供の足跡があったし、天井裏の埃は場所によって積もり方が違った。軒下には猫では大きすぎる這いずりの痕跡が残っていたし、庭先の柿の木は人が長年登り続けたように曲がって成長していた。

 普通の人間は天井まで足が届くはずも無いし、柱を蹴り上がったりもしない。柿の木もわかりやすい。登ろうとした事がある人はそれがいかに難しいか判るはずだ。あんなに滑る幹をするすると登れれば、それはもう人ではなく動物か、もしくはそれ以外の何かだ。


 そういうものが家に憑いていて、ある時すとんと消えたのだ。


 初めてお宅にお邪魔させて頂いた時、そういったあれこれを何となしに指摘したら色々とバレた。いや、見れば判るだろう、くらいの話題だったのだが、そうでもないらしい。


 なので、そういったことがある時にたまに呼び出された。類に漏れずそのケースのようだった。



「どんな部屋なんですか」

「開かずの間ってことになっててね」

 面倒くさい。開かずの間は大抵、開かないのではなく開けないのだ。それには障りがあり、人はそれを厭う。私だって例外ではない。


「部屋の中身は一つだけ。それを外に運んで欲しい」

 私は露骨に嫌な顔をしていたと思う。

 匂いの質が少し妙だった。

「重くありませんか」

「そこはほら、君だって男の子でしょう」

 それはそうだが、それにしたって限度がある。逆に言えば、小柄な私でも持ち運べる大きさのものだということだ。つまり、

「何を運べばいいんですかね」

 家主は部屋の中身を見たことがある、ということだ。


「鏡だよ。大きな姿見」

 金属と木の匂いが半々。なるほど、と頷いて戸に手をかけた瞬間、何か花のような香りがした。


 もう少し素直に言おう。嫌な予感がした。


「女性ですか?」

 完全に意味不明な問いを発する私。しかし、

「それは、その」

 家主には心当たりがあるようだった。つまり、彼には意味が通ったわけだ。


 こうなるともう嫌気の度合いが最高潮になる。周りの音も引き潮のようにすっと消えていた。異物が出る時によく起こる、過剰なまでの静寂がそこにあった。

 つまり、それは、困ったモノだと確定した。


「蒐集家に譲る事になってるから、割らないで貰えるかな」

 私が極稀に見せる凶暴性を心配したのだろう。

「割りませんよ。中身が出てくるならまだしも、眼の中に破片が入りでもしたら最悪じゃないですか」

 まぁ匂いのする部屋に一人で入ってくれと言われた時点で最悪ではあるのだが。


「日の出てる今、片付けます」

 戸に再び手をかける直前、確認ですが、とまた聞いた。

「布、かかってますよね?」

 姿見には必ず布がかかっている。現在では鏡面を保護するためだが、宗教的な意味が存在することもある。

「僕が子供の頃に一度だけ見た時にはかかっていたよ。それ以来開けた人はいない」

 うわぁ、信用できねぇ。これ絶対布上がってるパターンだよ。そう思いながら、

「開けますよ」

「じゃあ僕は逃げるから」

 家の外に人を集めておいてください、とだけ告げて、彼の背中を見送る。


 待ち時間は二分。人の声が全くしない。ついでに携帯電話の電波も届いていない。ほぼ確定で黒である。

 舌打ちしながら戸を開ける。

 思いの外、するりと開いたその中は、埃一つも漂っていない。

 ただそこに、私がいた。

 否、鏡に写った私だ。

 ほらやっぱりだ。布がめくれ上がっている。

 布は赤と白の花柄で、古そうな代物だった。

 まぁ、問題はそこだけではなかったのだが。


 鏡の前に、女物の下駄が揃えて置いてある。

 匂いは彼女のものだ。

 大きさ、鼻緒の柄からして子供ものだろう。


 この家に以前、居憑いていたものと同一人物かどうかまではわからなかった。

 ただ、この下駄の持ち主はこの鏡の中に入って行ったのだろうと推測できた。


 実際に障りのある鏡なのだろう。だから開かずの間などと称して見ぬふりをし続けてきた。けれど鏡の側は常に誰かを受け入れる態勢にあった。だから下駄を揃えて置いたのだろう。

 履物を脱いで上がる場所は『外』から『内』に限られる。

 は常に開かれていたのに誰もそれを見ようとしなかった。見たくなかった。そういうモノだったのだろう。

 恐らく、だけれど。


 運び出す前に布を掛ける。直前、鏡の向こう、引き戸の向こう側にいる女の子と目が合う。和服姿だ。恐らく明治か、大正か。十代に届くか届かないかくらいの子だった。その子がもう少し年嵩であば時代を特定できたかもしれないが、無意味なので止めた。

 その子は既に向こう側の存在で、私と交わることは金輪際無い。


 それでも、嫌なものを見たな、と思ってしまった。障りのある鏡の存在が実証されてしまった。



 その後、庭までよいしょと運んでお終いだった。

 見た目よりもかなり重かった、と書いたら失礼だろうか。

 帰り際に恩師の師から「どうだった?」と問われたが、ただただ「歳の割にはませた香水でした」とだけ返した。

 今にして思えば、布の方に付ける香水だったのかもしれない。もう解らない。記憶の中の匂いに再会したことはない。


 蒐集家だか好事家だかに買い取られる女の子入りの鏡とは、それきりだ。

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