首吊り

 多くの場合、死とは畢竟、窒息だ。

 少なくとも私はそう認識している。

 窒息とは即ち、脳の停止に当たる。


 臓器の多機能不全による血液の停滞や、失血による酸素供給機能の瓦解。勿論、不意の事故──溺死、喉の気道の損傷など──によって肺に酸素が行かず死ぬこともままあるだろう。上の定義に当てはまるなら、循環性ショックしも窒息だ。


 が、今回はもっとシンプルな話になる。


 首吊りによる死だ。


 大体の場合、家の中での首吊りは死後数日以上経ってから発見される。腐乱は勿論、筋肉の弛緩によって漏れ出た糞尿の臭いが撒き散らされ、隣家や近隣から警察に通報され、そして死者が発見される。


 これが家やアパートではなく、ホテルや旅館だと話が変わってくる。

 ホテルマンや清掃員、仲居などが音信不通の部屋に入った時に死体と目が合うのだ。眼球がこぼれ落ちるほどの時間はない。


 いずれにしても迷惑な行為である。

 家やアパートなら次の買い手に困るし、ホテルや旅館なら曰く付きにされてしまう。


 だが、人がいない場所ならどうだろうか。

 不運な人間にとって厄介極まりない事態になりうる。

 なった。

 その時の話をしよう。




 一話で出た彼女が存命の時分である。もうかなり昔の話だ。


 当時から似た悩みを抱える者同士、ひっそりと連んでいた私たちは、その日は珍しく買い物に出かけた。

 駅近くは人混みになっていて、どの時間、いつの時期に行ってもぞわぞわと人間が蔓延っている。とは言え自分たちも道に充満する人間の一部なのだから文句は言えない。曲がりなりにも社会生活を送っているのだから買い物くらいには出かけざるを得ない。

 当時は今と違って通販も無かったし、何より彼女は規格外に小柄だったため、あったとしてもあまり役には立たなかったろう。

 そんな理由で出掛ける羽目になった。私は単純なもので、頼れる人が他にいないと彼女から言われると嫌な顔もせずに着いて行った。

 あとから考えれば家族や同性の友人もいたろうに、そうしなかったのは予感があった──聞こえていた──からだろう。



 買い物自体はつつがなく完了した。お互い人酔いして休み休みだったが、目的の服は買えた。

 あまり外に出歩くわけでもないのに、服や装飾品を欲しがるのもよくわからなかったが、人間とはそういうものだ。私も読みきれないほど本があるのに、わざわざ買ったり借りてきたりするので、人のことをとやかく言える立場に無い。


 さて、帰りの電車内で奇妙なことを頼まれた。

 買い物に付き合わされた時点で相当なものなのだが、輪をかけて異常な事態だと理解したのはこの時だ。


「家まで送って欲しい」


 あとは駅で別れてお終いのところを、わざわざ家まで着いてこいと言うのだ。


 正常な恋人同士や、あとは互いの気持ちを確認し合うだけの友人同士なら抱く感情は違ったろう。だが私たちの関係は爪弾き者同士の馴れ合いだ。協調関係や友情で結ばれただけのものではない。

 故に堅固な関係ではあったものの、同族が周囲にいないがために発生した連帯感のような感触だ。

 つまり、まぁ、単純な恋愛関係とは程遠かった。


 朝っぱらから出歩いて、一緒に食事までして、帰り道に着いたのは午後も夕方には遠くかといって太陽はとうの昔に中天を過ぎ去った頃。彼女の帰途には公園がある。駅から歩いてすぐに

 なぁ、と一声かければ、すぐ硬い声で「うん」と頷く。

 

 ゆっくり歩いて五分以上かかる場所から臭いが漂う。何故公園の匂いだとわかったのかと言えば、木々草花の青い匂いだ。

 それに混じって、否、それを上書きするように、異臭がする。

 生き物の臭い。腐乱し、混ざり合い、濁り、流れ、沈み、しかし折り重なるように積もり続けた臭い。

 海。


 普通に考えれば異常事態である。

 海のある県に住んではいたが、そこから海まで何キロもある。

 つまり、彼女はこの日この時、この時間に独りで居るのが厭だったのだろう。何かが聞こえていたはずだ。波音か。それとも。


 問えば、

「軋む音」

 とだけ返って来た。


 軋む?


 意味は不明だが、二人の情報を揃えてようやく人間一人分未満の知覚能力しかない。別々の事象を捉えている可能性だって充分ある。

 手を少し強めに握り、安心しろ、とかなんとか言ったような気がする。対抗手段は色々あったが、一番楽なのは遠回りすることだ。だが、それは避けた。対抗手段そのものを持っているのは私だけで、彼女はただ聞こえるだけだ。本当に困る相手なら対処するしかない。頼れる他人もいない。

 だから、一直線に現場へと向かった。


 臭いを辿り、公園へ。


 少し歩いただけで、こちら側の匂いがわからなくなるほどの異臭があった。公園が見える頃には死臭すら感知できた。


 当然、何も見えない。それはそうだ。当たりをつければ別だが、漠然と歩いているだけである。


「他の音は?」

「葉っぱの擦れる音と、ぽたぽた滴る音と、」

 そこまで揃って、ようやく事態の異常さが度を越えていると理解できた。


 1、海の匂いがする。

 2、軋む音がする。

 3、葉擦れの音がする。

 4、滴る音、恐らく何らかの水分が落ちる音がする。


 異常なのは1だ。他は「公園で首吊り死体があれば達成される」のに海の存在だけ浮いている。

 滴る音は死体から糞尿が垂れる音だと考えられる。


「それと、」

 絞り出すように、彼女。まだ何かあるのか。


「声」

「どんな?」

「助けて、って」


 合点がいった。

 死んでいる自覚のないやつがたまに出る。生きていると勘違いして、辺りをうろつくのだ。


 海の存在だけが不明だったが、もう気にしないことにする。彼女が知覚していない以上、この子にとっては無意味な要素だ。私が無視すればそれで終いだ。


 ほとんど無言で人気も音も無い昼下がりの歩道。家路を歩けば、視界に飛び込んでくる公園。緑が生い茂り、花がところどころに咲き、ぶらんこが佇んでいた。

 異臭の度合いは最悪で、まるで気化した海をそのまま鼻に流し込まれているようだ。粘度のある空気。重苦しい臭い。


 問題の音の原因は、思った以上にはっきりしていた。


 木の枝にぶら下がっていたのだ。死体が。


 もちろん現実のものではない。二人分の情報を寄り集めた結果見えるようになってしまったあちら側の存在。受容させられた情報量に応じて顕現するよくわからないもの。閾値を超えて発現した異物。


 その死体は同じ動作を繰り返している。

 これもよくあることだ。自覚のない死者は死の直前の動作を繰り返す。

 

 何度も同じビルから飛び降りる投身自殺者。

 毎晩同じ時刻に同じ道を走る車は同じ崖へと飛び出す。

 毎年命日になると勝手になる仏壇の鈴。

 全部似たようなものだ。


 だから、そいつもきっとそうだったのだろう。


 潮水でずぶ濡れになったままの指で「たすけて」と鏡文字を足元に書いて首を吊る死者。


 左前の服装や裏拍子など、死者は生者と逆の行動や服装をさせられる。だからだ。ご丁寧にも足元の文字は鏡文字。

 「わたしは死んでいます」とアピールしているようなものだが、肝心の本人にそれが理解できていない。


 ちらと彼女を確認する。

 引き攣った表情で凍っている。眼の前に死体があって、それが首を吊りながらたすけて、などと言っているのだ。

 どうする、とは聞かない。ただ彼女の手をいきなり離すのは憚られた。


「ちょっと殺してくる。待てる?」

「待つ、けど、」

 早く、速くしてほしいのだろうな、と思う。私だって嫌だ。

 怖いのは、嫌いだ。

「借して欲しいものがある」



「おいあんた」

 首吊りを敢行しながらもがき苦しむ溺死体を睨みつける。

 どっちで死んだのか判然としないが、少なくとも窒息であることは間違いなさそうだ。顔だけでなく手や足まで真っ青で、目は充血している。


 吊った後、誰かに見つかって捨てられたのか?

 だとしても、私ができることはほとんどない。

 死因など、この際どうでもいいのだ。

 ただ、呼吸できなくなったのだろう。

 それだけだ。


 びっくりした顔の死者は、ぶらぶらと揺れつつ唇からうめき声をあげている。

 形はたった四文字。

 たすけて。

 それだけだ。


「安心しろ。もう死んでる。これ以上死ななくて良い」

 そう告げると、死者はきょとんとした顔でこちらを見つめる。相変わらず木からぶら下がっていたが、きしきし軋む音と揺れは収まった。左右逆さまの靴が止まる。

「死んでるんだ。もう苦しまなくて良い」

 わからないか? と聞いても、ただただびっくりした表情を向けるだけ。


「ほら」

 そういって、彼女から借りた手鏡をずぶ濡れの首吊り死体に見せる。

「こんな顔で生きてるつもりか?」

 さっさと死ね。


 こぼれ落ちんばかりに見開かれた目は鏡と私を往復し、そしてそのまま、すうっと消えた。


 同時に臭いが無くなる。死体があった場所には水たまりもない。

「音は?」

 彼女に聞けば、もう無いという。

 めでたしめでたしだ。

 


 自分の家に着くなり、緊張の糸が切れたように眠りについた彼女を放っておいて、私はその隣でぼんやり過ごした。

 彼女の飼っている猫が心配そうにこちらを見つめて鳴いたが、唇に人差し指を添えて静かにしているよう促すと、ベッドの上で彼女と一緒に丸くなった。

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