1話-伊勢うどんに想いを込めてθ
「ただいま~」と声を掛けると、私は玄関が暗いことに気がついた。紅葉は帰ってないのだろうか。伊勢宮にこき使われた床磨きでへとへとで、洗面所で一通りの手洗い、うがいを済ませると、リビングへのドアを引いた。
そう、引くのである。そこが珍しくて決めたのだが。
リビングの窓はかなり大きく作られていて、そのすぐ下にソファを置いた。月明かりが丁度見えて、飲むのにも雰囲気がいいから。
「……紅葉のやつ、帰ってないのかな」
ぶつぶつ言いながら私は冷蔵庫から冷えた水を取り出した。湧き水で汲んでいるので美味しい。
……と何かを踏んだ。
「ふにゃ!」
「わ、紅葉! そこに寝てたの?」
紅葉はす……と時計を指す。九時を回っていた。食べずに待っていたのか、あわてて私は電気をつけると、エプロンを手に台所に駆け込んで、フライパンの蓋に気がついた。開けるとカレーが出来ていた。
「作っておいたよ。紗冥ちゃん、お弁当買ってくるの忘れると思って」
――あ。
「どうせ、伊勢宮のおにーさんに扱き使われて私の御夕飯なんか忘れちゃうと思ったからね」
「……面目ない」
「休憩時間でしょ。でも、あたしと逢えたのは20分……あの着物のおねーさんとのほうが長かったから、冷蔵庫のデザートはあげないからね」
やれやれ。私は苦笑いしてご飯を寄せたお櫃から麦入りのご飯を盛った。カレーは普通のジャガイモ入りに、ニンジン、私達は滅多に肉は食べない。神道特別区では肉は禁止されている。
「紅葉、食べよう。デザートは食べていいよ」
「紗冥のばか」
カレーを食わずに、「ばか」。伊邪那美の重みを無くした紅葉は少し変わったようだ。いや、神魂を持っていたほうが、魅力が闇染みていただけか? 普通の紅葉でいいじゃないか。
「えっと、何故ばかと言ったのか、10文字で述べよ」
「好きだから」
「は?」
紅葉は「ずーっと好きだから」と言い放つと、元気よく「いただきます!」と手を合わせてカレーにパクつき始めた。
えっと、それは。
ボケ過ぎだろ、紗冥。一瞬あの嫌味な伊勢宮の声が聞こえた気がして、私は頭を振った。二人で綺麗にカレーを平らげて、紅葉はお風呂を見に行って、私は洗い物を済ませて晩酌用のグラスを並べる。
しかし、紅葉はお風呂に入らず、私に先に入れと進めて来た。
珍しいが、紅葉は昼間の一件を引きずっている様子だ。まあ、説明するとなると、天命や伊勢神宮であったことを話さなければならない。
「うん、ありがと。じゃあ、御先に。伊勢宮稜、めちゃくちゃ人使い荒くてさー」
「斎王だもん。当たり前じゃん。あたしも伊勢神宮で働きたかったのに」
脱衣所でふと見ると、紅葉の背中がガラス越しに見えた。(なんで、そこにいるの)と思いつつ、ちょうどいい御湯加減に目を閉じる。さわさわ、と風らしき音。
――の後。
ガラッ……! 勢いよくガラスの扉が開いた。「も、紅葉?!」紅葉は素っ裸でぽいっと最後の下着を放り投げると、ずかずかと湯舟に近づいて来た。
ざぶーん!と勢いよく飛び込まれて、私も目の前にはお湯のナイアガラの滝が聳えたつ。「さて、女の子同士のお話、しましょうかぁ?」と紅葉は笑っていない目を私に向けた。
……逃げられない。
RPGで言えば、逃走出来ないメインバトルだ。
「あの人、紗冥のなに?」
「……若旦那にうどんなんか教わる気?」
同時に不満が出て、同時に目を丸くする。紅葉は俯いた。
「あの若旦那、紅葉を狙ってんじゃん。……可愛がられて嬉しいけど……」
「すっごい美味しいうどん打つから。教えて貰おうと思ってお願いしただけだけど?」
紅葉はからっと言った。
「だって、紗冥ちゃんの大好きな伊勢うどん、いつでも作ってあげられるから」
あーあー……これなんだよ。
いつだって紅葉に適わないのは。「可愛い事言うなよ」とわたしが結局負けるのだ。頬を寄せて、何をするでもなく抱きしめて好きだ……と思うのはいつも私のほうだ。そうして言えないのも私。
前世を融合させても、何も変わらない私達なのだった。
*****
「なんだ、相談だなんて珍しいな。昨日のオーバー分は終わったのか」
翌日、伊勢宮に頼まれて私は名護の祓の帳簿を綴っていた。つい、相談がある……なんて言ったのは、伊勢宮は前回のことを憶えているからだ。
「熊野さんが伊勢に来たみたいですが」
ぴき。伊勢宮の額が動いた。トランスジェンダーの熊野は伊勢宮を追いかけまわすので、伊勢宮としては疎遠になりたいらしい。
しかし、伊勢と熊野と言えば2大神社でそうもいかない。
「……あの男はどうでもいいが、相談とは? 紅葉の覚醒か」
「え?」
「きみが相談というなら、それだろう。紅葉の記憶の封印が薄れていると、聞いてはいた」
「また強固にしたほうが」
「いや、原因はきみだからな。……記憶どうこうではないだろう。紅葉のブレにはきみが関わる。ボケているから仕方がない」
ぼ、ボケ?……紗冥は言葉が出なかった。
「紅葉はきみを見ているだろう。紅葉に聞け」と突き放されてしまった。
(それが出来ないから、あんたに聞いたのに!)
私は紅葉にあのことを忘れて欲しいのか、想い出して欲しいのか……蛭子を流した伊邪那岐の頃の心が甦るようで、私は唇を引き締めた。
どうせ逃げ腰だよ。お昼は紅葉のうどん屋には行かなかった――。
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