1話-伊勢うどんに想いを込めてα
「いらっしゃいま……あ、紗冥ちゃん」
私は着物姿の紅葉に「や」と手を挙げた。紅葉と私は伊勢の近くに住まいを移し、紅葉は柚季の紹介で老舗の蕎麦屋で働いている。私はというと、伊勢宮の手伝いが縁で、戸隠神社出向として、繁忙期の祓い行事に駆り出される毎日だ。
大学の無い日は、ほとんどが伊勢神宮で過ごす日々である。
「稜さん、茅輪が歪んでいるんですが」
「……直してくれ」
「あの、榊が足りないみたいなんですが」
「業者に電話すればいいだろう。いちいち私に聞くな、紗冥」
こんな調子である。そんな私の楽しみは、神宮を出た大通りで食べる伊勢うどんだ。
「いつもの?」
「うん」
すっかり馴染んだサムイの襟の柄は波総柄。和の雰囲気を演出している。和風カットソーに短くなったぎりぎりの解れ髪。三角巾の結び目を揺らしながら、紅葉はキッチンに駆け込んでいった。
ほんと、器用で羨ましい。
紅葉は大抵のことは憶えてしまうし、動きも早い。背は低くはないのだが、フットワークは巫女舞をやるくらいだからとても軽い。
「紗冥さん、お疲れ」
若旦那に挨拶をされて、私は畏まった。
「紅葉、どうですか」
「よくやってくれるよ。さすが稲荷巫女の紹介するだけはあるな。あの子、うどんが打ちたいんだってさ」
――うどん?!
そこまで鉄人にならなくてもいいのに……。私は何とも言えない気持ちで、パタパタ動く紅葉の結び目を見詰めた。
「込んで来た。相席でもいいかい」
「あ、大丈夫です」
さっと頷くと、若旦那は接客するべく玄関に向かって行く。厨房からは野太い声で紅葉に命令するオヤジの声。
「もみじちゃーん、これ、伊勢うどんと牛巻き」
「はーい」
すっかり馴染んだらしい紅葉を若旦那が優しい眼で見ているのも気に入らない。(落ち着け、わたし、嫉妬だそれは)と水を流しこんで、ぷは、と顔を上げた。
紅葉は良く動くし、和風の若旦那にも、伊勢宮にも気に入られる。どこか愛らしいところがそうさせるのか。兄貴様も可愛がっていたフシもあったし。
「あらぁ、偶然~」
突然華やかな着物の女性に声を掛けられて、わたしは顔を上げた。
「あ!熊野の」
たれ目に少し厚めの唇。着物は肩を見せたセクシースタイルの熊野奈津美は店内の眼を引いていた。
しかし、着物の下に潜めているものを知っている。熊野大社の神主だ。
「伊勢宮に頼み事があったのよ。追い払われちゃって? 逃げられて? まあいいわ。おひさ」
言うとちらっと紅葉の様子に視線をうつし、ほっとしたように熊野は水を口に含んだ。
「紅葉ちゃん、変わりないみたいね」
「あ、あの時はありがとうございました」
「……黄泉還りだと、何かと不都合も生じるから。記憶を無くしたりね」
「ああ、紅葉の記憶は消えているみたいです」
熊野は「やはりね」と小さく呟くと、今度はわたしに上半身を乗り出させてきた。
「あんたも、変わんないわねえ」
「いせうどん、おーまーたーせーしーまーしーたー」
むっとするような紅葉の声に、熊野はす、と上半身を引いて見せる。
「おきゃくさまぁ、ごちゅーもんをお受けしますぅ」
「そんなに警戒しなくても。紅葉ちゃん、こんにちは」
紅葉は(だれよ、この美人、浮気者)と言わんばかりにわたしをじぃっと見詰めている。
……天命の記憶は、戻っていた日から消えているから、紅葉は熊野のことも覚えていないのだろう。
「紗冥ちゃん、このかたは?」
「……伊勢宮斎王の知り合いだよ。接待しなきゃならなくてね」
嘘は言っていないぞ、紅葉。
わたしは視線をいささかそらしながら、伊勢うどんを啜り始めたのだった。
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