最終話 紗冥と紅葉の予想①
――和暦480
鈍色の海をひとりで見つめていると、とたんに孤独の気配に包まれることがある。それを黄泉と呼ぶのなら、それでもいい。かつて愛した伊邪那美が溺れた世界なら、わたしだって、溺れてみよう。そう思うと泣けてくる。
「龍仙……あんたともっと、話したかったよ」
巫女は彪隠しに囚われる。鬼無里という地名にそぐわない、あまりにも優しい龍鬼は文字通り倭国を人に委ねて、消えた。
富士の龍穴から、鬼無里を抜け、江ノ島まで。窟屋という不思議な場所へ導かれるままに、龍仙は散ったのだと思う。
そこに、龍の意地や、永年の解放、その中に、少しでも、わたしたちとの天命を惜しむ気持ちがあって欲しい。
砂浜に置いたままの、草薙の剣を少しばかりの砂風が埋め始めた。わたしはしっかりと剣を持って、立ち上がる。
そろそろ追想から、予想に還らなければ。未来に置いて行かれてしまう。
緩やかな風が吹いて、ふわりと気配が舞い降りた。
驚いて顔を上げると「やっぱここにいた」とあどけなさを残した笑顔がわたしを見下ろしている。
「江ノ島危険区域の第三の窟屋の前じゃなかったの? わ、高い」
「気を付けて。もっと登ろうと思うけど」
「あたし、サンダルなのに~~~! 手、離さないでよね?」
***
紅葉は実に二か月を眠り続けて、またこの世界に戻って来た。その執念は執念と言うよりは、想いなのだと、ぽつりと告げて、巫女ではない道を歩み始めている。
紅葉の母親は、元気な母が、見つけて来て、紅葉は無事に母親に抱きしめられて、やっと、伊邪那美の確執から抜け出せた。
紅葉が母親と巧く行かなかった部分も、魂の作用があったのかもしれない。
やはり、母親は強い。「あんたも頑張ったわね! 大人になったわ紗冥!」と背中を叩くけろりんぱのウチの母親はともかくとして。
この「天命」が古から決まっていたのか、海底でわたしたちが囚われたのかは、今となっては朧気だ。ただ、言えるのは、人は前に進む生き物だということ。
天命を乗り越えて、進むしかないといいつつ、進める生き物だということ。委ねられた大地をしっかりと踏みながらね。
「紅葉、もしかして、今の、独り言聞いてた?」
「うん? あたしをずっと好きだって言ったこと? 聞いてないよ? ずっと好きなんて」
絶句するわたしににゃは、と笑って、紅葉は隣に座って、髪を揺らした。手首の八尺瓊勾玉が相変わらず揺れているが、この風景を見るも、今日で最後だ。
「邪魔はしないから、物思い続けていいよ。紗冥ちゃんがそういう目をしているとき、綺麗で、声、掛けられないの。また、昔の話でも思い出してた? 紗冥ちゃん、古典好きなんだね」
「うん。大学は、倭国の古典専攻にしようと思って。紅葉は?」
「あたしは、どうしようかな・お母さんとの神社復興もあるし、鬼無里の復興委員会には登録するつもりなの」
すっかり下ろした髪が似合うようになった紅葉はわたしの孤独を一緒に愛してくれている。というのも、紅葉には、もう天命の記憶はほとんど無くなっているからだ。
わたしの記憶もあいまいで、語りつくせば言霊は貴女たちへと遺り、わたしのなかから消えるでしょう。それでも、わたしたちは堂々と手を繋ぐことを怖れなくなったのは、何か、遠くの魂たちが、ようやく眠りについたからだと思う。
時折、紅葉が光に透けて、消えそうに見えて、わたしは紅葉の腕を掴んで、紅葉は遠慮なく腕に収まったりして、可愛く誘ってくれるところは変わらない。
「やりかた、わからないんだよね。どうすればひとつになれるんだろう」
わたしたちは、未だに結ばれてはいない。
実は何度も挑戦しているのだが、結局素肌でじゃれて寝てしまって、お互いの心地よさは掴むものの、いまいち結ばれる感覚は掴めていない。それでも、以前よりずっと安心して眠れるようにはなった。
また、兄、慧介は稲荷巫女の柚季に猛攻撃をかけられ、とうとう婚約を交したところ。
あの元気な柚季が飛び回るなら、戸隠危険区域も立ち上がれるだろうし、心配はしていない。炊き出しの度に子ぎつねを引き寄せ、わらわらと子供を寄せ付ける柚季と、しっかりものの兄ならば、戸隠神社を盛り立てていけるだろう。
お邪魔虫のわたしは、家を出て、紅葉と暮らすかどうかの選択肢を迫られている。
「紅葉、鬼女紅葉の紅葉狩の能、引き受けたんだってね」
もう、わたしたちは卒業しているのに、紅葉はなぜか、最後に舞うことを申し出た。
「いつも踊る時、怖かったの。だから逃げるように舞ってたけど、色々考えて、ちゃんと舞を終えて、巫女を終えよう、と思ったんだ。生きた紅葉さんとちゃんと向き合うつもり。鬼無里の貴女だもの。紗冥、今度こそ、ううん、ずっとあたしを見ていてね」
――でないと、また、
一瞬そんな言霊が聞こえたが、わたしは紅葉の手を掴んで頷いた。
「あんたが、天命で倒れた時、世界が半分終わったよ。あんたがいないと、半分しか生きていない気がする」
「前世、夫婦だったのかもね?」
紅葉は会話を終わらせると、寂しそうに手首を撫でた。もう、わたしの中の記憶もどんどん削れて来ていて、今では紅葉を見初めた古代までしか思い出せない。
紅葉を狩れ。なんて言わず、傍にいてくれと言えれば良かったのに。
いつだって、わたしの魂はどこか、愛に間違うから困ったものだ。
しかし、今となっては、その時の人物の名前も、かつての自分も思い出せない。遡ってもぼんやりと靄が掛かって掴めない。
日々幸せが増えて、過去は手放していくべきなのだと云うがごとく。
そして、紅葉はまだ、手首に勾玉をぶら下げていた。
八尺瓊勾玉を。
「紅葉、それは、龍神さまのものなんだよ。お返しする約束でしょう」
「わ、分かってる。紗冥ちゃんだって、その剣、ずっと手放さないし?」
「うるさいな。うん、でも、これを持って帰って来るなって兄貴さまに怒られてるし。せーので投げ入れよう。まさか、海には入れないだろうし」
「ねえ、紗冥ちゃん、どうして、この海って鈍色なんだろうね。少し赤みがかかってて不思議よね」
――わたしたちが、この神器を持ち出すべきではなかったのか。
「――うん。江ノ島には、龍の神様が眠ってるんだって。うちのもあるでしょ。あの龍社。あんたがあたしの親知らずの時、お願いしてくれたやつ」
「え? なんで知ってるのよ?」
「聞いたから」
――もし、この神器に出逢わなかったら、わたしたちは何も知らず、龍仙も行動を起こさなかっただろう。紅葉はどうなっていただろう?
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