4:黄金の倭国の地図

***

「色々聞きたい話はあるのだが」

伊勢宮は、丸坐から立ち上がると、「見てもらいたいものがある」と部屋を退出し、わたしだけを誘った。

「紅葉は」

「下手に刺激すると、黄泉の連中を掘り起こすからな」と尤もに言われて、わたしは一人で伊勢の内部の板張りの床を同じように歩いた。

「ここから先は、一般には絶対に見せられない伊勢の歴史がある。きみには、見せようと思っていた」

 伊勢宮は、一つの間の襖を開けた。そこには、畳に、床框(とこかまち)掛け軸、と変哲もない和室だったが、伊勢宮は床框に歩み寄った。床の間を高くした、和室の神坐である。

 漆塗りの刀置台をずらすと、取っ手が現れる。それは手前に動き、見事な地下階段への口を開けたのだった。

「驚くことはあるまい。どこの神社にも、地下の貯蔵庫は作られている。斎宮に伝わっている場所だ。大きすぎて、地下でしか見られないものがある」

 地下階段を降りると、また広くなった。

「ここが、伊勢神宮の内宮の本殿、つまりは本体だ。伊弉諾宮に繋がる空洞だが、灯りをつけよう。同じイザナギでも、書物では伊邪那岐、宮は伊弉諾と例えられる」(※注釈)

 伊勢宮は静かに告げ、壁の電気をつけた。

「なに、これ……!」

 そこには、壁いっぱいに広がる、龍の彫り込まれた黄金の図面が光に浮かび上がるように、わたしたちを待ち構えていた。わたしは口元を覆わずに居られなかった。

「赤いピンが刺してあるだろう。伊勢神宮を示している。これは古代では地図と呼ぶ代物だ。昔は地形の変動が無かったから、こうして容を保てていたそうでね」

 ぞっとしながら、わたしは壁を凝視した。

 北海と呼ばれる北の地、東平野と呼ばれる平たい大地、それはわたしたちの世界よりずっとずっと大きく、まるであたかも龍が乗り移ったような、かつての日本列島の図だった。

「遥か昔の、倭国の図だ。いつからか、この全体図は作成すら不可能になり、伊勢引き取り密かに黄金を塗りこめ、地中に彫ることで、国家機密になったと聞く。昔は大地の形もしっかりと把握されていたんだな」

 伊勢宮はゆっくりと地図のピンを、伊勢と、もう一つの場所に指した。

「ここが、オノコロという場所で、きみたちだと伝えられる。ここから我が国を作ったそうだ」

 わたしは、壁に手を伸ばしたが、何かで固められているらしく、塗料特有の臭いがするだけだった。

「気分が悪くなるだろう。大昔のこれだけの土地が今はと思うと。これが、天命の凪だ。きみたちも、この地に生きるものたちも、全てが自分の立ち位置を知らされず、何のために生きているのか、疑問に思うことも封じられているが、分かるな」

 伊勢宮は引き上げる体制を取ったが、わたしはあまりの大きな龍の図に、動けなかった。

 まるで、地に龍が貼りつけられているように見える。大きな頭は潰され、伸ばされて、ねじ曲がったからだをそれぞれ打ち付けられている。天に還りたい龍が擬態しているように見えた。今にも、天へと舞い上がってしまえそうなくらいの躍動感を以てして。

「なんか、苦しそうに見えます」

「ほう?」

 わたしはそれなりの解釈を口にしてみた。伊勢宮は何も言わず、また地中階段を上がり、再び小さな和室に戻った。不思議な感覚を拭えずにいると、伊勢宮はお茶を差し出してくれた。

「幼少に、父にを見せられて、事態の大きさに慣れるまで、地下に閉じ込められたことがあった」

 伊勢宮は懐かしそうに、語り出す。

「今のきみと同じだ。私にも龍に見えた。その龍がこちらを向き、出てきたらどうしようと父に相談したら、父は笑ったものだ。私の父は天命に消えたとされているが、違う。伊勢が大揺れになり、伊勢の鳥居も崩れ、熊野の連中の攻撃があった。その時、私は地下にいたんだ。4歳だったが、両親が隠したからこうして生きている。伊勢を途切れさせるわけには行かなかったのだろう」

 それは伊勢宮の見えなかった半身だった。伊勢宮は、一頻りを話すと、目をわたしに向ける。飴色の目は、どこまでも見透かす、龍に似ていた。

「頼み事はわかっているが、悪しき魂にどうあっても、絆されてしまうのは、永遠のだらしなさかも知れないな」

 相変わらずのぐさりと来る言葉に落ち込むわたしに、伊勢宮は意外そうに問うた。

「何故、落ち込む。きみは時折わからないな。霧生紅葉のためならばとやって来たのでは?」

 紅葉との会話が過ぎる。

「わたしたち、どこにいるのか、見る術も知る術もないんだよね。戸隠・鬼無里の地形すら知らないのよ。それなのに、色々な時代は流れて、必ず紗冥ちゃん……わたしを、殺すの。ぐるぐるぐるぐる……わたしはその度に逃げて、でも、殺される。必ずよ? 何度も何度も」

(紅葉は涙を拭って、わたしの手を取ったんだ……わたしは言葉が出なかったよ)

「今度は、止めてね。だからわたしたちは、女のコ同士で良かったの。ひとつにはなれなくても、殺されることは、ない。こんな風に、ちらちらと断片が過ぎり続けたわ。だけど、私は我慢したよ。だから、今度は、紗冥ちゃんが頑張る番だよ」

 紅葉の言葉を思い出して、わたしは震える両手を膝に置き、頭を下げた。

「紅葉のために、わたしの瀕死の魂を救って欲しいんです。そうでなければ、わたしは自信を持って、紅葉の隣に居られない。紅葉は強い。わたしは、あんな女のコになりたかった。いつだって羨ましくて妬んでいた。こんな自分を紅葉に知られたくなくて、心を閉じたんです。そして、紅葉は……」

 唇が震えた。

「必ず、どの時代でも、紅葉を殺したそうです。おかしくないですか?」

 わたしは核心を掴もうと、もがくように言葉を紡ぐ。

「わたしたちが、伊邪那美と伊邪那岐だとしたら、どうして、こんな不運な凶事の円環の中に」

 魂の奥底が、ぞっとわたし自身を揺らがせる。どうして、こんなにも紅葉との運命がずれてしまうのか。謎は深まるばかりだ。

「原因はもっと奥深くにありそうだ」

 伊勢宮は傾聴を終え、静かに語り出す。

「本意は魂の奥底にあり、これを神魂と呼ぶ。誰もが神の記憶を持っており、神の化身だ。基本的に人類の集合意識アーカーシャガルバという情報の倉庫に行き着く。転生の記憶も、全てみな、抱えているはずだが、読み取れないで藻掻くんだ」

「読み取る……」

「何かがきみの魂の読み取り回路を遮断している。伊勢の宮司として救ってやりたいとの思いはある。天命が関わっているならば、猶更それは神職の領域だ」

 高級そうな畳に涙の大粒を落とし、わたしは斎宮の前で、二度目、泣いた。屈んだ気配に顔を寄せると、伊勢宮は静かに告げた。

「きみの精神は幼稚だと言ったが、補足する。まるで、育っていない赤子だ。相当、辛いと思うが……魂鎮めではなく、魂呼らいたまよらいの儀を受けてみるか? すぐに逃げ出すきみが、呼び起こせるとも思わないが」

 伊勢宮は首を振って、立った。

「きみの魂はどこかで成長を怖れ、止まっていて、通り過ぎた時代で堪えず足踏みをし、息も絶え絶えに、きみの中に宿った臆病な神魂だ。怯えている魂に、至極、興味はある」

「それが、瀕死状態ですか。紅葉だって同じはずなのに」

「霧生紅葉は違った。んだ。畑は違うが、阿頼耶識と言えばよいか? 伊邪那美の完全なる転生体と言ってもいい。きみへの飽くなき欲、執着心、愛憎、混沌……更に霧生紅葉本体持つ魂の強さに、あの母の影響だろう。おそらく伊邪那美は、紅葉の母に宿り、紅葉を待ち続けたのだ。きみを追いかけて、今度こそ幸せになりたい想いだよ。きみへの想いが、常に完全なものとして魂を支えているんだ」

 わたしは唇を噛み締めた。そうまでする紅葉の事象は、やはりどこか他人事で、自分のことだとは思えず、完全なる不感に覆われてしまうのだ。

 完全に、「魂が瀕死状態」だとも気づかずに。「紅葉は、ずっと……」言葉に出来ないのを何かのせいにして来た。なのに、わたしは、ずっと紅葉に甘えていた。

――紗冥ちゃん、大好きだよ。いつだって、紅葉は紗冥ちゃんが欲しいの。

「わた、し……」嗚咽なのか言葉なのか。わたしは生まれたての赤子のように、言葉を押し出そうとし、その度に飲み込んだ。

「きみに嫌われたら、霧生紅葉の魂は再び黄泉に堕ちるだろう。誰もが信じることが出来ずに、疑いながらも、信じたいものでね。戸隠紗冥。だから、ここに来たんだろう? きみは、そういう魂の持ち主で、人はそうそう変わらぬものだよ」

 神主たる悠々とした声音に、わたしの荒れ狂った心は、凪を取り戻した。

「わたしが、伊邪那岐の魂を持っていると、思えなくて」

「証拠はある。きみは魚を毛嫌いするだろう。……逸話だが、伊邪那岐は河で魚を狙った際に……躰の象徴の一部分に食いつかれてしまったと……」

 伊勢の斎宮は言葉を濁したが、熊野のお姉さんを思い出して、紗冥は絶句した。

「失敬」と伊勢宮は咳き込み、続けた。

「こちらにも準備がある。柚季が宿を用意したはずだから、今日のところは、休むべきだ。ただでさえ、きみは疲弊しているのだからね」

 伊勢宮は、目を細めて、促すように、わたしの肩を叩いてくれた。

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