3:伊邪那美の神魂、伊邪那岐の神魂

***

 伊勢に温泉はないと思っていたが、柚季は小さな露天風呂に案内した。神社近くの湧き水のため、一般には公開していないのだという。

「伊勢はな、神道特区の完成形なんやて。元々から神様のほうが多くなっていたから、神道に従事するんが当たり前。年間一〇〇〇以上の祭事の土地柄や。神様は上機嫌で居座っておるわ。今や隣の熊野神道特区と二分勢力になっとるんよ、あと、異端の出雲」

 熊野、であの鴉のお姉さんの正体を思い出し、わたしはげほっとなった。スカートの中は、黄泉とも言える。言うべきではないだろうと、胸にしまって、視線を逸らせた。

 紅葉は大人しく膝を立てて、緩やかなお湯に浸かっているが、桃の膨らみは可愛く膝小僧に添えられたままで、ふるふる揺れて、困らせるのだ。

 対する柚季は堂々と腕を露天の岩に伸ばし、惜しげもなく膨らみを露わにしている。合間でわたしは水面ぎりぎりに顔を埋めていた。

「しょっちゅう鴉の大群に悩まされて、斎宮が蹴散らしておるわ。大昔から、突っかかって来るらしくて、な。先日も戸隠で三羽カラスの呪符、奪ったやろ。次は飯やな! さっと浸かったほうが、疲れ取れるで。ウチのお気に入りの伊勢海老の料亭、予約せな!」

 今度はつるんとしたおしりを見せて、柚季はばしゃばしゃと忙しそうに上がって行った。

「伊勢海老だって。慰めてくれてるみたいだね。柚季さんらしいよ」

 はは、と笑って紅葉を見ると、紅葉はチラチラとわたしを見ていた。

「なに」「ううん、紗冥ちゃんって分からないなあって。なんか、どこか、浮いてる感じがしてたのって、紗冥ちゃんの魂が寝てるからなのかな、いつになったら起きるの」

「ヒトの生きざまを寝ぼけ眼みたいに言われても。……うん。どうやら瀕死状態らしいんだよね。そのせいかな。紅葉に……伝えられないんだよ」

 すい~と紅葉が湯面を揺らし、そばにやって来た。

「あたし、不信感を持ってたの。途中で言葉をくれない紗冥ちゃんに。紗冥ちゃん、言いたくても言えなかったんだって。伊勢宮さんね、魂鎮めの前に、言ってた。紗冥を許してやってくれ、と。でも、紗冥ちゃんの何を許せばいいの? 紗冥ちゃんは奥底でドロドロしてて、わからなさすぎ」

 紅葉はざばっとお湯を上がると、ぶるぶると頭を振った。

「だから、わたしはバカみたいに、紗冥ちゃんを好きでいるの。紗冥ちゃん、何かを庇ってて、辛そうなんだもん。だから、わたし、紗冥ちゃんを好きなのはやめないから」

 驚き続きの言葉に、紅葉は唇に指先を当てた。

「早く起きて欲しいな。これじゃ、永遠の一方通行だよ? あたしが伊邪那美の神魂持ってるなら、紗冥ちゃんだよ、伊邪那岐の神魂持ってるの。そうに決まってる。はやく起きないと、あたし、また、世界壊しちゃうからね? なーんちゃって」

 ぞっとするような目を向けて、紅葉は「ふやけちゃう」と上半身を伸ばした。衝動で、その柔らかい四肢を押し戻すように、腕に引き寄せた。素肌と、伊勢の柔らかな水質が、肌を行き来する。埋もれそうなほど、柔和な肩に顔を埋めた。

「――ありがとう、紅葉」

 この時、わたしは思った。どんな未来が待ち受けようと、この子のために、また、覚悟を決めようと。何度目かの時の輪の中で、紅葉から逃げ続けて来た実感はある。

 逃げて紅葉に伝えられないなら、どんなに苦しくても、伴侶だと声を上げるほうを取ろう。

(この子のために、向き合うは、伊勢の斎宮だ。兄貴さま、そうでしょう?)

 露天風呂から上がると、伊勢の御付きらしき二人が今度は座敷へと案内してくれた。土地勘のない伊勢の区画は分からないが、料亭が高みにあるお陰で、全貌が見えた。

 しかし、伊勢は魚が主流。だか、優しさのある御持て成しの上、母と別れた紅葉の前で我儘は言えないだろう。わたしはなんとなく、刺身を持ち上げては、戻す作業を繰り返した。

「中央に大きな横丁あるやろ、あれが居住区やな。ウチらは神宮住まいやけど。一番奥に神宮が配置され、125社の神社を繋ぐ、大橋がある。紗冥ちゃん、魚嫌いか」

(うっ……)と伊勢海老の透き通ったお造りと格闘しているわたしの代わりに、既に口に箸をつっこんだ紅葉が告げる。

「この人、絶対魚、食べないの。美味しいよ、紗冥ちゃん」

「いや、生理的に苦手で。なんか、見ていると胎内がぞわっとしてきて、胸が詰まる……」

 大きく踊っている海老が「なんだと」と睨んでいるような気がする。結局箸をおいて、海老は全て柚季と紅葉に分けて貰ったが、紅葉は紅葉で甘味の桃を嫌がり、わたしが食べた。

「いやん、桃、嫌い」

「どっちもどっちやな。好き嫌いも引き継いでる斎宮が言ってたで。どうする? 斎宮に逢うなら、段取りしよか? ウチ、また狐憑いたからな、夜しか出入り出来へんが」

「いえ、すぐに逢いたいです」

 わたしの勢いに気圧されたのか、柚季は「ほな、それまではゆっくりしいや。このままこの料亭で休めるように手配しとくわ」と腰を浮かせ、狐を連れて出て行った。

 すぐに代わりの仲居がやって来て、てきぱきと布団を敷いて行ったが、わたしたちは目が冴えてしまって、結局部屋を出て、伊勢を歩き回ることになった。

 歩き回っているうちに、妙な解放感を覚え始めた。

 ここには、鬼無里特区のように、豹変する鬼はいない。透き通る人型や、動物も多く混在してはいるが、わたしたちを知る人はいない。

 しばしのデート気分で、わたしは紅葉に手を伸ばした。紅葉はすぐにわたしの片手を両手で捕まえると、今度は両手を腕に代え、片方の腕に手を添えて寄り添い始めた。

「くっつき過ぎ。歩きにくいから」

「いいの、これで。色々お詣りしたいけど、もう午後だよね」

 神社はなるべく午前中に鳥居を潜るが相応しい。伊勢の神様へのご挨拶はしようということで、手前の大きな神社だけに手を合わせた。

「紗冥ちゃんの魂が起きて、はやくやりかたを知りたいです」

 神様、どうやって叶えるんだと困りそうな、紅葉の願いは聞かない振りをして、わたしはわたしで「紅葉のためにも、わたしの魂が起きますように」と、だからどうしろと言うのかと突っ返されそうな願いを唱え、二人で御神籤を引くか引かないかでもめて、結局絵馬を眺めるだけにして、引き返した。

 神社の神様は、願いを叶えるわけではない。己が向き合い、潜在力を引き出す場所だとは分かっていても、わたしたちは、神社が好きで、よりどころだった。

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