2:伊勢神宮

 うとうとする紅葉を支えながら、わたしも目を閉じたりを繰り返した。舟は緩やかに伊勢への道筋を進んでいく。水流は穏やかで、妖怪たちは淡々と任務をこなしているようだった。

 龍神の為せる業かと龍仙を想う。どうも、この剣になると口を紡ぐのはなぜだろう。そして、この剣はなんで抜けないのだろう――……

 朝陽が昇り始めると、河伯たちの動きも鈍くなり、陸地との距離もはっきりと視え始めた。朝陽が水面を鏡のように、反射させる。風は心地よく、河伯たちの丁寧な動きで、揺れもしなかった。

「さすが、河の主さまたちだね。助かったよ。紅葉起きて。もう陸地を離れたよ。木曽川に入るところみたい」

 大きくそびえる富士の山麓に、雄大なる河川。夜と合わせて、妖怪たちは小さいモノから離れていく。海の色が変わり、わたしたちは富士を離れ、伊勢特区へとたどり着いたことを知る。この河伯たちはここまでが領域なのだろう。後で知ったが、この川は天竜川と云って、龍と、河伯が棲んでいたそうだ。

「紅葉、伊勢に近づいてる。河伯が帰って行くよ。ありがとう。龍仙によろしく言っておくよ」

 揺り起こすと、紅葉は目をこすって辺りを見回した。海の色がはっきりと違う。戸隠からの河は群青に近いが、伊勢は千草色で、青緑に近く、潮溜まりの色も、真っ白だった。 

 告げたとたん、一匹の河伯が水面に顔を出し、にー、と笑って手だけ出した。すると、真似たように無数の河伯の手が水面に出て来た。水掻きの大小の手は、なにやら強請る手つきになった。長いモノを表しているが、生憎、河伯の好物の胡瓜は持っていない。

「ごめん、後で山ほど持ってくるから、ツケといて!」

 親指を一斉に下に向けながら、河伯たちは盛大な水飛沫を浴びせた。

「んもう、びしょぬれ!」

 ぴょこっといくつもの顔が水面に浮かんで、褒美のなかったただ働きの河伯たちはけらけらと笑っていよいよ、去って行った。

 残った海坊主たちとは、注連縄で繋がった岩の手前で、穏便にさようならとなった。

「どこに行っても、味方がいる。神道特別区の子供たちは、恵まれているのかもね」

「江ノ島でも、ぬらのおじいさんがいたね」

 見えて来るは、伊勢海岸で有名な夫婦岩である。おそらく、この海の主たちだろう。伊勢神宮の大きな鳥居は倭国最大と言われる。神道特区には、伊勢宮稜と、柚季がいるはずだ。

 わたしたちは力強くも貴びの伊勢の海を降り、砂浜に足を踏み入れた。

 伊勢に多い突風や、激しい嵐に巻き込まれなかったのは、まさに龍仙の加護だろう。

 しかし、たどり着いたはいいものの、わたしたちは早速行き先に詰まった。

 ぼんやりと夫婦岩を眺めるばかりである。

「単に伊勢に行けって言われても広そうだし……取りあえず、伊勢宮斎宮探そう」

「お豆腐ソフトクリーム!」「紅葉!」早速屋台に駆け寄る紅葉を叱ったが、紅葉は「平気だよ」と颯爽と小銭をはらって大好物を手に戻って来た。

「だって、あの柚季さんたちだよ? 絶対鏡かなんかで見てるって。夜鷹が飛んで来たら、その方向に行けばいいんじゃない? はい、あーん。ね、あの繋がった岩、夫婦岩なんだって。御祈りしなきゃ、お祈り!」

 すっかり元通りどころか、度胸も誘惑もパワーアップしている。

 ――ま、いいか。代償も大きいが、紅葉の母が取り返したわたしの「霧生紅葉」だ。二人でゆっくりと舟を降りて、誰もいない海岸を歩いた。

 伊勢海・夫婦岩神社は正しくは、二見興魂神社(ふたみたまごしじんじゃ)と呼ばれ、海の神をまつっているところは、江ノ島特区とよく似ていた。かつてはもっと伊勢と離れていた様子だが、いつしか伊勢神社の管轄に入ったらしく、拡大した伊勢神宮の影響を受けている。

「伊勢の規模、大きいな。こんなとこの宮司に魂鎮めなんかされたら、ひとたまりもなかったよね」

「でも、何か事情があったみたいだよ?」

 すっかり元の調子でじりじりと寄って来るソフトクリームの先端をあむっと食んだ。紅葉は驚愕して動かなくなってしまった。

「……なに、あたし、豆腐好きだけど」

「紗冥ちゃんが、紗冥ちゃんが……あたしの、食べた……。ね、熱でもあるのかなっ。どうしよう、あたしが、熱出そう、紗冥ちゃん、その表情は反則……!」

「繰り返すなって! あんたがあーん、ってやったんだよ。なんか、恥ずかしくなって……来……」

 ちらっと見ると、紅葉は唇を緩めていて、それがいとけなく見えて、わたしは頭を振った。「ん」と瞬間を見計らい、尖らせた唇に、ちょん、と唇をくっつけたい欲に駆られた時、海が大きく波打ち、海岸を揺らし始めた。肩に手を載せていた紅葉が「あれ?」と離れる。

 言わんこっちゃない。海からはもくもくとした黒い影がせり上がっている。

「……またなんか、起こした? あたしの悪しき魂ちゃんかな」

「ったく! く、抜けないんだった! この剣!」

やっぱり抜けない使えない神器の剣を振りかざしたところで、空から無数の鷹と、大きな狐が海に飛び込んで、翳を蹴散らした。

「伊勢宮斎宮と、柚季さんの狐!」

 見事に海の影をぶち抜いた無数の鷹は大きな夜鷹になり、紅葉のアイスを落とした。

「あたしのソフトクリーム~~~~~!」

構わずにわたしの間をすり抜けた夜鷹は伸ばされた腕に止まる。狐は紅葉の足元にやってきた。

振り返ると、二人が海岸に立っているが見えた。

神宮衣装の伊勢宮は一瞬戸隠の伊勢宮と同じか疑うほど、恰好が違ったが、肩だし、狐憑きの柚季ですぐに分かった。

「早速、黄泉の連中を起こしてくれたな。どれだけウチの鏡にヒビを入れてくれるのか」

夜鷹を飛び立たせながら、伊勢宮が麗しき声で語り掛けた。

「すいません! 騒がせて、え? また割れたんですか。紅葉ですか」

 伊勢宮はどうやら笑いを堪えているらしかった。

「ようこそ、我が伊勢へ。神聖なる夫婦岩の前で睦みを行うとは、さすが、悪しき魂の持ち主……」

「待ってたでー! 心配してたんや! 鏡パーンなってな!」

「柚季、遮るな」

「うち、引っ繰り返って、池ポチャやで?! 紅葉ちゃん、すっかり元通りやな! どや、元気になったか? 紗冥ちゃんとは相変わらずか? ええな、仲良しが一番や。良かったな。な、顔見せてや?」

 飛びつかれた紅葉が驚く前で、わたしは伊勢宮稜に取りあえず、頭を下げた。

味方かどうか分からないが、この人にはたった独りで向き合わねばならない瞬間が来るだろう。

「あの、わたし」話しかけたところで、ぐいっと腕を引かれた。紅葉の右腕とわたしの右腕を合間でくみ上げた柚季が会話を遮った。

「まさか、水妖まで味方にしてるとはなあ、河伯の行脚、見ものやったで! おもろいなあ、河伯が大協力やて。伊勢界隈のアホ妖怪も捨てたもんやないで斎宮、ささ、温泉行こ」

「伊勢宮斎宮、あたしのアイス落としました」

「柚季、給金から出しておいてくれ」

 伊勢宮は弁償を柚季に押し付け、すいと足をわたしに向けた。紅葉は柚季の狐たちに取り囲まれて、ちゃっかり弁償のアイスを受け取り、すっかりご満悦。

「伊勢神宮と、随分近いんですね」

「大昔はもっと距離があったのだが、度重なる天命や地殻変動で年々伊勢の土地は海に近づいている。先日二五〇回目の式年遷宮を行ったばかりでね。いまや、居住区も全て呑み込んでしまった。伊勢一帯を神道特別区と指定されている有様だ。自治体を伊勢神宮が兼ねている」

「鳥居が、ふたつ見えます」

 対角に赤と白の鳥居が見える。どちらにも、八咫鏡の花紋を象った神紋が掲げられていた。

「我が伊勢には外宮と内宮がある。陰陽を司る元陰陽師もここから生まれ、かつての倭国の故郷とも称された。柚季、温泉とはなんだ。そんな場合ではないだろう」

 狐を背負った柚季は紅葉に姉のように抱き着きながら「考えや、このわからんちん」と珍しく口答えをし、紅葉を撫でた。

「この子は鬼無里で散々やったんや。そんでも、ここまでやってきた、ウチの大切な二人やで。女三人と言うたらな、温泉、美味処と相場が決まっとるんや。おかん、あんたのために、魂鎮め破ったんやろ? かっこええな。けけけ、斎宮が悔しがってな。術を破られたん、初めてやってん。ずっと籠って勉強ばかりやで」

「そこの稲荷。内情を漏洩するな――では、仕度が出来たら内宮へ。私は仕事に戻るから」

 柚季は満面の笑みで、しっしと尻尾を揺らした。

「ああ、そうしいや、そうしいや。可愛い女の子の癒しはモフモフ狐と美女が適任やで。な、ゆっくりしてってな? 大事やったな、ほんま、よう、頑張ったな、紅葉ちゃん」

 紅葉はゆるっと双眸を潤ませて、柚季に飛び込んで、わあわあと鳴き声を上げた。柚季は揺らがず、紅葉を支えてくれて、気が済むまで付き合ってくれたのだ。

 紅葉はこの時、やっと、ほっとしたのだと思う。

(わたしは紅葉に好かれていても、安定剤になれるほど、大人ではなかった。だから、わたしは柚季稲荷の優しさに感謝をするべきだろう。そして、それを咎めなかった斎宮伊勢宮稜へも。紅葉を救いたいため、鬼無里の命運を懸け、鬼門を壊した紅葉の母も、力を貸してくれた龍仙も。送り出した家族へも)

 わたしの意義を、わたしは見失ってしまった。

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