第四章 天竜川越え、伊勢特区へ
1:戸隠と、伊勢を繋ぐ龍道を
「源平合戦で消えた剣が一本あったろう。本当は、鬼女紅葉を殺した後、東海の熱田神宮から伊勢を通じ、こうして戸隠で眠っていたんだ。名を変えて――」
兄は最後通牒のように、ゆっくりと告げた。
「この剣こそが、鬼女紅葉を殺めた剣そのものだ。呪いが蔓延したとされる、誰も見たことのない剣だ。この世の表舞台に出ると、世界が終わると言い伝えがあった。龍仙にも深く関わるが、この剣の持ち主はかつて、妹、きみなんだよ」
――戸隠に兄、慧介の声が厳かに響いた。
夜更けの戸隠神社は、静寂なはずが、今日は人の気配が絶たない。鬼無里神社が燃えたことで、鬼として目覚めた民衆が押し寄せているが、どうやら中まで来る様子はなかった。
紅葉がちらちら、と外を窺う前でのわたしの厭味など、気にもしないように、兄はケースを閉じ、錠前の鍵を握りしめた。
「伊勢に行けば、分かるだろうさ」兄は扉を締めながら、続けた。
「ここは昔ながらの呪われた地でもある。龍仙の存在がそうだ。鬼と神が入り乱れ、人と人が
紅葉と手を繋いだまま、わたしたちは兄の話にただ、聞き入った。
「男の子たちのお話より、面白いんだけど」と紅葉が告げる。
「あんた、男の子に何を聞いていたの」
紅葉はくふっと目を三日月にして、にんまりした。嫌な予感を感じて、話題を引き上げると、「いずれわかるよ」とまたしても不穏な言葉がやってきた。
「紗冥ちゃん、伊勢に行こ。そこで、紗冥ちゃんの魂も起きるかも知れないんだよね」
紅葉はやたらに、わたしの神魂を起こすことに拘っている。それも、何やら遠足前の子供のようにうきうきして、嬉しさを押さえられていないのである。
「龍仙を呼ぼう。力になるだろう」
兄はふたりの会話には取り合わず、呪符を置き、手を翳した。
「え? まさか、わたしたち龍に乗るの?」
「乗れるものなら乗ればいい」
冷たい目の兄の視線に、紅葉がまた、くふっと笑う。
「紗冥ちゃん、お伽噺とごっちゃになってるよ? 龍は実態がないんだって教わったでしょ? 乗りたかったの?」
わたしは思わぬ失態にむっつりと口を噤んでしまい、紅葉はいつまでもくふくふと笑ってリボンを揺らしていた。
「龍仙、彼女たちに守護の道を啓け。戸隠と、伊勢を繋ぐ龍道を」
「龍の道?」紅葉は紅葉で姿を現した龍仙に驚き、慌てて頭を下げていたが、驚いた理由は「大きい」からだと聞いた。確かに、龍仙人は人よりも少々大きい。わたしは慣れていたが、紅葉の態度は、神様を目にした人間として、然るべき態度だ。
「龍仙、頼むよ。伊勢で真実を掴みたいんだ」
「紗冥」母が剣を投げて来た。
「いいよ、抜けないんだもん、これ」
「神器に選ばれたのだから、持って行くべき。あんたは諦めが早すぎるのよね。もっと抗えってお母さんいつも言ってるでしょう」
お説教も一緒に受け取って、紅葉の手を引くと、兄に導かれるようにして、戸隠神社の裏参道に出る。神社には表と裏があり、裏を通ると「帰りは恐い」の童謡通り、彪隠しの一種になるよ、との伝承は倭国に語り継がれる約束だ。
龍仙が長い腕を伸ばし、宙に降った。
「裏参道だ。知っているだろうが、参道は神に拝謁賜るための道。裏参道は……鬼から逃げる道、
「援軍?」
「伊勢への道は険しいが、奴らなら、穏やかな道を知っているからな。知り合いだ、悪戯が多いが、気にするな」
鳥居には逆さ注連縄が下がっていた。わたしたちは、こうして鬼無里を抜け、龍の護る道を進むことができたが、戸隠神社の裏は海岸になっていた。
戸隠から見えていたうねるような大きな河は、かつて遠くに流れていた河が拡大し、水輪と呼ばれるパワースポットになったと言われている。罪人が流れ着いたという河には、舟が括りつけてあった。
「紅葉、乗って。このまま伊勢まで下ろ」
兄が龍仙に頼んだなら、その道は水龍――つまり、水流となる。舟は一度だけ、父と乗った覚えがあった。しかし、女子の非力な腕で、伊勢まで行けるのかと思ったが、水面に、突如わらわらと出て来た黒い影にわたしたちは跳ね上がった。
ぴょこ、と顔を出したのは一匹の河伯だ。次々出て来て、舟の廻りに集まり始めた。口をに~っと歪めて、お揃いの皿に水をなみなみと溜めて、水掻きの手をわきわき動かしている。
「河伯! 河伯さんがいっぱい来たわ!」
「え? 援軍って河伯?! 水龍だから?!」
龍仙の気につられて、河伯、水妖、それに海坊主らしき翳が、わたしたちの乗った舟を取り巻き始め、河の流れが変わると、瞬く間に、舟は動き出した。子供を背負った大きな河伯が紅葉の前に現れた。
「もしかして、紗冥ちゃんに引き寄せられてるんじゃない? じゃあ、伊勢まで、お願いしまーす」
河伯の親子が気持ちよさそうに河を先導し。舟はゆるやかに進み始める。
「川の妖怪ってマジでいたんだ……」と神社の巫女らしからぬ言葉を告げると、また紅葉はくふっと笑った。
「あんた、なんでそう、ご機嫌なの。悪しき魂どこやったのよ」
紅葉は流れる景色を見ていたが、夜闇の中では、星しか見えず、諦めてわたしに向いたようだった。
「わたしの悪しき魂のことを考えてみたの。そうしたら、答に行き着いた。わたしね、紗冥ちゃんしか欲しくなくて、男の子たちに誘われても、抱かれても、多分紗冥ちゃんだと思ったと思う」
「あー、そういう話をなんでこんな時に! ほら、河伯たちが目を丸くして見てますが!」
基本、妖怪は面白いもの好きである。たくさんの河伯に護られながらも、紅葉は「ひとつになるなら紗冥ちゃんの気持ちが悪しき魂かも?」と手を重ねて来て、いきなり舟が揺らいだ。見れば、河伯が皿を押さえながら、手を離したところで、一匹は皿の水を落とし、ぷかりと浮いていた。
仲間がわらわらと皿の水を足す騒ぎに、河伯便は停止する。
「ほら、紅葉! 変なこというから、妖怪さんが引っ繰り返って水零して浮いてる!」
「伊勢についてからにするね。静かにしてます。ウフフ」
あまり、知られていないが、河伯は淫猥な衝撃にめっぽう弱く、純粋なのだった。
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