3:燃える神社
***
「おそーい」戸隠の濡縁に座っていた紅葉が、わたしを見つけて声を上げる。わたしは砂埃を頭に乗せて、神社の階段を登ったところだった。
正直、くたくたになっていた。紅葉の魂なんか、どうでもいいくらい、くたくただった。初めて化け物と戦ったせいもあるし、熊野の正体もわたしには衝撃的だった。
「紅葉、祭祀、終わったんだ」
「終わったよ。滞りなくね」
紅葉は頬を膨らませると、何を察したのか、わたしの腕に腕を絡めたが、わたしは反射的に腕を振り払ってしまった。
「相手が、違うよ」紅葉は見た覚えのない表情になった。多分、魂を封じられたなりに、自己形成の作り直しが進んでいるのだろう。少なくとも、わたしは今の紅葉を見たくはない。
「あんたは、わたしの紅葉じゃない」
「……やりたいくせに」ぼそっと言われた言葉に、心臓をわしづかみにされる心地で、足を止めた。
「いつも、あんた、わたしを見てるもの。そうだよね。わたし、男の子たちにもそういう目で見られてて……全員、ケダモノだよ」
すっぱーん、と翳した手を振り下ろすと、紅葉は驚いた顔で、わたしを見て、目を潤ませた。
「いったあああああい。信じられない、信じられない!」
――きみたちを引き裂くつもりはなかった……って?
わたしは紅葉を通り越し、伊勢の斎王に憎悪を向けた。どんな時でも、紅葉を憎むことはできない。
「信じないならいいんじゃない? 紅葉、もう陽が暮れるよ」
「いやだ、帰らない」
紅葉は尻尾を揺らして、巫女服のまま、首を振った。
「帰れば」
「いや」
「帰れって」
「いや!」
門のところで騒いで、二人で階段で足を滑らせる。腕を引いて、紅葉を助けて、倒れ込んだ。月が見える。紅葉は号泣していた。
「あんた、だけ、だもん! わたしを欲しがるのなんか……どうせ、わたしは狩られるんだから。今日だって頑張ったのに! 鬼女紅葉の舞が、どれだけ怖いか分かってない! 歩く度に、胸が痛かった! なのに、あんたは、知らない女子と喋ってて!」
「あー、分かったから」馬乗りになった紅葉は、大粒の雨を降らせ、わたしは起き上がって、肩を叩いて窘めた。
――紗冥ちゃん、大好き! そんな言葉はもはや出ない。それでも、わたしは巫女だから。
「お母さんに逢いたくない」紅葉は小さく震えながら、わたしの胸に擦り寄った。
「お母さん? ああ、鬼無里神社の巫女さんの」
紅葉はびくっと肩を震わせて、無言になった。
「どうせわたしは狩られるんだから!」
紅葉の魂の叫びに揺らされた鼓膜は、暫く震えを止めようとはしなかった。
「紅葉、あのさ……」
気づけば、すうう、と聞こえた寝息に、肩から着物がずり落ちそうになった。
「ま、一日走り回ってたもんね。あたしにあんたを担いで階段上がる、筋力はない」
膝にずらして、境内のそばで空を見上げる。やがて、兄がやって来て、紅葉をおぶって奥社に向かうことになった。
「――紗冥」兄は階段を上がりながら、「この世界をどう思う?」と問う。
「どうもこうも。神の信仰を大切にする世界でしょ? 貨幣世界より、わたしは好きだな。それに、紅葉が居る。それだけでいいよ」
兄は無言を貫き、数段上がって、口を開いた。
「紅葉は、最初から
――お母さんに逢いたくない。
紅葉の怯えようを思い返し、わたしはまさかと兄を伺う。
「伊勢の
兄は紅葉を背負い直しながら、階段をゆっくりと上がっていく。
「つまり、おまえたちのどちらかが、
兄は続けた。
「あの八咫鏡は醜いものを映し出す。神の力を分け与え、地上に降りたものだと言われている。三種の神器は全て、そういったものだ。しかし、いつぞやの天命時に、行方不明になってしまい、八咫鏡以外は散り散りになった。そうなると、神器を介していた秩序は無くなり、伊勢も何度も焼かれている」
紅葉を窺いながら、兄は息を吐いた。
「紅葉の中は、混沌している。その中で、おまえへの想いだけに縋っていたんだ。母親の度重なる鬼の顔、表明には出なかったが、紅葉個人への圧迫と攻撃。巫女だから、神道力が剥くんだ。それと、紗冥。俺も、紅葉と同じだ」
意外な言葉に、わたしは黙したまま、兄を再び見る。
「おまえは、俺が嫌いだろう。それは、当たり前なんだ――」
ふと、兄の手首にも、注連縄が巻き付いているが見えた。兄は紅葉を背負いながら、手首を震わせていた。
「俺と、紅葉は共に、耐えようと……している、のに……」
「兄貴さま?! 紅葉と同じってどういうこと?」
兄の目は、赤かった。まるで、先ほど見た蛇翳のような目をしていた。その時、神社の外での人だかりの声に、わたしは目下を見下ろした。
人々が、松明を手に上がって来る。空は夜なのに、真っ赤に焼けていて――。
「戸隠神社の慧介殿に、申し上げます! 山火事らしき出来事が!」
「山火事? 催事の後に?」
兄と顔を見合わせた。
「どこが燃えている!」
「燃えているのは、戸隠山、それに西側の鬼無里神社です!」
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