2:館武士《やかぶし》の怨念

少し前は、ここで正気を取り戻したのだが、今はどうだろう。紅葉の手の石は、あの頃よりも増えていて、術も強固になっているに違いない。わたしはあの紅葉に逢いたかった。

 しかし、紅葉は今は祭の祭事中だ。何としても、鬼女紅葉の行脚を成功させなければならない。これで異変などが起きたら、いよいよ大変な騒ぎになる。それほど、この鬼女紅葉の舞と神事は重要な様子だった。

 しかし、元の紅葉が大人しくこの場所で祭事を終えるかというと、不安が過ぎる。

「ちょっと見て来ます」

「わたしはここで、見張っててあ・げ・る。行ってらっしゃい」

 まるで何かを知っているような熊野の口ぶりも気になったが、わたしは紅葉を追いかけた。戸隠山に踏み込み、鳥居を目にして、奇妙な感触を憶え、立ち止まる。

 ――以前も、こんな風に紅葉を追いかけた。それは幼少の時から感じていた話だ。そして、わたしたちはこの場所で、口づけを交した。

 紅葉は係から榊を受け取ると、一人で「月夜の陵(はか)」へと足を進める。高下駄のコロリン、カラカラ、という特有の音は、戸隠山に響き渡った。

「戸隠神社の巫女です」の一言で、入山させてもらい、やがて、麓から山道に入ると、わたしたちだけになった。瞬間、カラコロリン、の音が止んだ。

「……紗冥ちゃんの浮気もの。また嫌いになっちゃうから。しーらない」

 ぽかんとしたわたしにくすとやって、紅葉は「そんなはずないじゃん」といつもの口調に戻る。紅葉は足を止め、「このあいだの」と唇を撫でて見せたが、わたしの脳裏は完全に停止した。

「だめだよ、祭事中でしょうが」

「紗冥ちゃん、そのつもりで来たでしょ? 本当のわたしと逢いたいって」

 相も変わらずの図星で、わたしはさらに髪を揺らした。

「……ぎゅー、くらいなら」「やった」腕に飛び込んで来た鬼女紅葉の扮装をした紅葉は、鬼女と貴女の狭間で、見紛うばかりだ。見下ろしていると、かんざしがふいに揺れ始めた。

魂鎮たましずめ……色々な記憶が次々消されていくの。でも、最後まで手放さないで頑張ったのに、なんか、遠くなっちゃった」

 紅葉は涙を拭うと、「どんどん」とぼやいて、はっとわたしから離れようとした。

 わたしは、怖れていた言葉に、声を出すもできず、弾かれた運命を呪うばかり。巫女だから、呪ってはいけないけれど、今回ばかりは許される気がした。

(世界が、わたしたちの恋の祝福を拒む。だから、伊勢宮はあんなに頭を下げたのだろう。でも、引き寄せた腕の中の紅葉は温かい。それだけで、幸せな気がする。頬ずりするように抱きしめると、紅葉はふにゃんと頬を緩めた)

「ねえ、何か、気にならないさっきから、の」

「また? あんたの下駄じゃなくて?」

「そういう感じじゃなくてね……」

 手前勝手な紅葉は、きょろきょろと周辺を見回し、祠に目を止めた。うず、と唇を緩めたので、出番とばかりに叱ってやった。

「だめだよ。紅葉。あんたは今、祭祀中! また後で連れて来てあげるから」

「でも、気になるんだもん……」紅葉は後ろ髪を引かれながらも、祠の前で仁礼二拍手一礼をこなし、くるりと出口に向いて、またつんけんとして戸隠山を離れて行った。

「あら、キッスしなかったの?」

 出口で待ち構えてニヤニヤと待っていた熊野をじろ、と睨む。見張っているとはそういう意味かと、わたしは息を吐いた。

「やっぱりついて行って良かったよ。紅葉、気になりだすと祭事も忘れて走って行っちゃう。さっきも、何か気になるって祠に顔突っ込もうとして」

「あらそーぉ? でも、なんか気になるのよねえ」

 熊野は艶めかしい目を細めると、「見て来るわ」と戸隠山に飛び込んで行った。まるで主を持たない自由な鴉そのものだ。しかし、すぐに戻って来て全力で走り抜けて行き。無言で走る熊野の背後に大きな大蛇の影が見えた。それも、何人もが組み合わさったような、奇妙な奇怪な、奇体とも言える黒い影が、わたしたちを覆いつくそうと触手のようなものを伸ばしていたのだ。

「な、なんだよ、アレ!」

 熊野は「しくじったわ」と砂埃を巻き上げる中で足を止めた。

「鬼女紅葉が呼び起こしたのよ。地中に眠っていたヤツを起こしちゃった。この野郎!」

とじゃらりと重なった天狗のような首飾りを手に巻き付け、仁王立ちになった。

「熊野先輩、今の声、男の……」

「大変、大変、バレちゃった?」と笑顔を向けたまま、熊野はほっそりとした手を伸ばす。

 熊野を追うように、戸隠山からはのっそりとした黒い蛇翳じゃようが腹をうねらせて、山麓に口を向けていた。

「紗冥ちゃん、伏せて!」

 ウロオオオオオ……! 大蛇が叫ぶ前で、わたしと熊野は構えを取った。

 腹は白く、斑模様の大蛇は、大蛇というよりも、色は鬼に近く、形態は龍の爪を持っている。しかし突き出た無数の触手はどうやら落ち武者の鏝を嵌めた手、らしかった。

館武士やかぶしの怨念かしらね! 鴉のおねーさんが祓っちゃうわよ!」

 砂埃を巻き上げる大蛇は、熊野やわたしの頭上に上半身をうねらせた。「しつこい野郎」と唸りを上げた熊野のスカートが舞い上がる。見えたものに、わたしは言葉が出なかった。

「あの、熊野先輩、まさか、おと……」

「どこぞの陰険な伊勢の坊やが寄越した式神でもなさそう。術者に性別なんか関係なくってよ!」

 五芒星ごぼうせいを宙に描くと、蛇は身動きが取れなくなったが、わたしのほうに目を向けた。

「そっちに行ったわ。その剣は飾りなの?!」

「くっ……抜けないんだよ!」

 やっぱり抜けない使えない剣を振り回して、なんとか追い払ったが、次々出て来る蛇翳に、わたしたちは大騒ぎになった。

「紅葉が呼び起こしたって」

「黄泉の連中が、伊邪那美の魂で起き始めている。黄泉ってのは――ここ!」

 ヒールでズダン! と地面をけり、熊野は「おわかり?」とまた優雅に微笑み、「地中で、眠っていろ!」と見事に蛇の影を両断した。

 五芒星がはじけ飛び、結界も飛び去って、大気も割れた。ジャッと鈴なりになった石の合わせ音が響いた時、大蛇の集合体はきれいさっぱり消えていて、空間は元通りにただ、そこに在るだけで、夏虫と秋の匂いが戸隠地区を包み込んでいた。

「今日はお帰り願ったけど、また出て来るわよ。あいつら、土から生まれて来るのよ。あたしも大概土蜘蛛さんだから分かるの。で、あんた」

 ずいっと寄られて、「あたしのスカートの中は内緒にしてね?」と囁かれた。そう、鴉のおねーさんは、実はお兄さんだった。事実はともかく、熊野はふふんと髪をはらって、にっこりと微笑みを浮かべて聞いたのだった。

「ねえ、この辺に美味しいお蕎麦屋さん、あったわよね? 一緒に行かない?」

 丁重にお断りをした。

 ちょっとでも男と知らず、揺らいだ自分を情けなく思いながら。

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