4:鬼女紅葉

 紅葉がぱっちりと目を開けた。「紅葉!」兄は紅葉を下ろすと、「なんだって?!」と山麓を見詰める。確かに、鬼無里・戸隠山の麓からは赤い炎と黒煙が巻き上がって見える。

「随分火の回りが……」

「お母さん!」

 紅葉はわたしなど眼中にないように叫んで戸隠神社の階段を駆け下りて行った。舞の跡で疲れてしまった足は、すぐに悲鳴を上げるらしく、立ち止まる。それでも走り出そうとすると、すり切れた足が止める様子だ。それでも、助けを求めない。

「紅葉……」

「大丈夫、だから……来ないで……」

 しゃがんで、俯いた紅葉に、わたしは手を差し出した。

「頑固者!一緒に行こう! 大丈夫だから、手、離さないから」

 大きな瞳がくにゃりと潤む。わたしは強く頷いた。龍仙が助けてくれたのだろう。追い風がわたしたち二人の背中を押してくれたのだから。

 人だかりをすり抜け、紅葉を庇うようにして、大通を抜ける。戸隠山の麓まで走ると、空は異様な赤に染められていて、火事ではない様子は、ゆらゆら生きる焔で分かった。

「よりにもよって、鬼女紅葉の祭の夜に篝火かがりびなんて!」

 震える紅葉を抱き上げて、腕がちぎれてもいいからと、鬼無里の村跡までやって来た。

「鬼女紅葉だ……」

「我らの平穏を焼いた、鬼女がいる」

 炎を見て動転した村人たちが、ユラリ、と揺れて、紅葉とわたしを取り囲む。

「な、なに……? ちょっと、紅葉を捕まえないでよ」

「紗冥ちゃん……!」

 泣きそうな声の紅葉を、目が虚ろな人々が、引き剥がそうとする。こんな時に、伊勢宮や、柚季がいてくれたら! くやしさで唇を噛み締めた時、わたしの脳裏にはひとつの言葉が浮かんだ。

 “

 ――紅葉と刺し違える? 

 わたしは階段に足を掛け、ぎりっと歯をすり合わせた。紅葉はずるずると鬼無里神社の方角へ流されて行く。人々の形相は、まるで、鬼だった。

「鬼女紅葉、鬼女紅葉……鬼無里の、戸隠の平穏を壊す、鬼女がいる。鬼女、鬼女だ……」

 ゆらりゆらりと邪魔をする人々を飛び越えて、鬼無里神社に辿りついた。階段を登って奥社に飛び込んだ。紅葉は母親である巫女に腕を摑まれて、懸命にもがいていた。

「やめてください!」

 わたしの叫びに、鬼女が気が付き、焔は一層激しくなった。

 ――刺し違えても、紅葉を……!

 下からみあげるわたし、上で怯える紅葉。があった。確か、紅葉は捕まえられることに怯えていて、それでも神々しい鬼女紅葉に、誰も手出しは出来なかったはずだ。それでも、唯一駆け上がった館武士がいた。

「ごめん、紅葉。あんた、すっごく辛かったんだね」

 わたしは心から、言霊を紡いでいった。涙なんかに負けない。紅葉を突き放した自分を責めなければならなかった。

「家に帰りたくないって……言ってたのに……それは、母親に」

 殺されるから、とは言えない。ただの人間が、どうやって鬼に堪えられたというのだろう。

 紅葉は腕から抜け出そうと藻掻いていたが、やがて抵抗を止めた。

「紅葉?」

「私への恐怖が勝ったな」と母親が冷たくあしらい、紅葉の尻尾を引き上げた。

「親だもの。どうして、わたしが、この、わたしが、天命を呼び寄せるような魂を宿さなきゃならないのよ! ここは鬼無里でしょう? 鬼なんて、いないはずでしょう? なんで、この子が鬼女紅葉に仕立てられてるのよォ……っ! わたしの娘よ! どうして!」

 親としての嘆きは、悲鳴だった。わたしも同じことを告げただろう。

 どうして、どうしてわたしの愛する紅葉は悪しき魂なんて受け継いだのか。どうして、わたしは女なのかと。

「紅葉を、預けてくださいませんか。これ以上、紅葉を揺らがせると、伊邪那美の」

 紅葉は俯いたままで表情は見えない。

「もう、いい……」

 小さく呟いたかと思うと、ユラリと立ち上がった。リボンがほどけて、髪が落ちる。靡かせた髪を遊ばせて、紅葉は叫んだ。

「魂鎮めをすれば、大人しくすれば、いい子でいれば……! 結局紗冥ちゃんは、わたしなんかどうでもいいんだ! わたし、許さないからね……!」

 紅葉の目は赤かった。

「いつぞやの屈辱も、何もかも! 紅葉は狩るものじゃない! あんたのしたこと、この世界のはじまり、全部全部許さないからぁっ……!」

 鬼無里神社の石畳の階段が崩れ落ちる。「紅葉、落ち着いて」母親が紅葉を抱きしめると、紅葉はすぐに大人しくなったが、またわたしを睨んで来た。

 人に恨まれたことはない上、大切な紅葉に憎まれて、わたしは一瞬でも、死んだほうがいいと思った。

 兄を恨み慣れていた反動がやって来たのかも知れない。それは知らず紅葉に向いた、紅葉を壊したのかも知れない。魂鎮めの時も、わたしは来た。そのつけが今、やってきたのだ。思えばいつだって、わたしはこんなことばかりをしている気がする。どこか浅はかで、どこか独占欲が強くて。

「もう、死にたいよ、わたし」

 ぼそっと告げて、いっそ紅葉に殺されたいと願った瞬間、腹がかっと熱くなった。生命反応とも言えるかも知れない。

 諦めきれなかった。どこでも追いかけていっただろうと。

「許さないなら、どうするの? あんた、自分の家、壊す気?」

「――っ……!」

 紅葉は巫女だ。鬼女紅葉を思い出した。巫女は巫坐・憑代だ。それなら。

 ――いいでしょう。鬼女紅葉に同情するなら、その紅葉ごと、愛してあげる。

 燃え盛る鬼無里神社には人々が押し寄せて、混沌の渦が特区に襲い掛かっていた。人々は何に怒りをぶつけているのか分からないが、燃え盛る焔で、攻撃的な何かを刺激されているようにも見える。まるで、鬼を引きずり出そうとする修羅の人々に見えた。

 昼間は、あんなに和やかだったのに。

 わたしが階段を登ると、紅葉はびくんと怯え、泣きそうな表情を見せる。可愛い紅葉、あんたはいつだって、変わるはずがない。

「考えたら、あんたが魂鎮めくらいで大人しくなるはず、なかったね」

「紗冥ちゃ……」

「おいで。ほら、泣くほど嫌いなんでしょ? 殺したいほど憎いんでしょ?」

 わたしは一歩ずつ階段を上がって行った。

 紅葉は怯えながら、わたしの首に両手を伸ばす。

 その時、けたたましい崩壊の音と共に、焔に捲かれて崩れ落ちた大黒梁が紅葉を襲った。

 紅葉は一瞬静止し、目を見開いて躰を硬直させた。上から梁がゆっくりと堕ちて来る。

「紅葉!」わたしの叫びと同時にもうひとつの叫びが夜に木霊する。

 紅葉は何かに突き飛ばされて、階段から転がりおちそうになり。気づけばわたしの腕の中に飛び込んでいた。

 手首の石は大きく弾けて、小さな粒子が飛び散り、それは人型の形をして、紅葉の中に吸い込まれて消えた。

「良かったわね……あんたの魂鎮め、邪魔、してやった……のよ」

「お母さん!」紅葉の母親が、焔の中、落ち続ける材木の巻き上げる煙に消える直前に、わたしに紅葉を押し出すように突き飛ばし、ふっと微笑んだのだ。

「あんたの心は、還ったわ。紅葉を、頼みます、様」

「お母さん、お母さん――っ」

 紅葉の母親は、巫女としての天命を悟るような表情を見せ、俯き加減になった。

 全く外に出なかった紅葉の母親を見た覚えはなかった。元々神道特区はあまり燐家の交流はしない。でも、紅葉に似て、美しい女性だと思った。

 ――お母さんと、紗冥ちゃんのお母さん、すっごく仲が良かったんだって。

 紅葉の言葉は正しかったのかもしれない。

 暴れる紅葉を捕まえて、ただ、燃え盛る神社を見やる。この炎は、娘を解放したかった、母親の愛情を燃やすための護摩の炎だったのではないだろうか。

 紅葉の母は、旦那を無くし、神道一筋で生きていた巫女だった。

「おかあさ……」

 声にならないまま、紅葉はしゃがみこみ、わたしは何を言っていいか分からずに傍に立ち尽くした。火は、小さな神社を全焼させて、鎮火の兆しを見せ始めていた。

「紅葉、紗冥!」

 声がして振り返ると、龍仙を連れた兄の姿があった。

「母さんが、二人を戸隠神社へと保護しろと俺と龍仙を寄越した」

 がちがちと歯を鳴らす紅葉を揺すると、紅葉は、頭を振った。

「やだ。お母さんのそばにいる」

「きみの母さんは、生きていると母さんが言っているよ。お話を聞こう」

「本当?」紅葉は涙の溢れた目を向けた。兄は教えるようにゆっくりと頷くと、「詳しくは戸隠神社で」と結んだ。

「慧介さん、手首の石が飛び散ったの」

 兄は紅葉の手首を摑むと、辛うじて繋がっていた麻紐を解き、息を吐いた。

「ああ、失敗だったな。こうなった以上は、全てを話そう、二人ともおいで……そう睨むな、妹」

 わたしは、言葉も出せず、脳で兄に問いかけていた。しかし、わたしはテレパシーは使えない。聞かせて貰おうじゃないか……と目で訴えるが精々だ。

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