第三章 月夜の陵で

◇紅葉狩

――鬼女紅葉とは。中世に生きた長野地方の女性の伝承に由来する。元、長野地方だった名称は、神道特区導入の新制度で呼び名を変え、鬼無里・戸隠神道特区と呼ばれるようになったが、鬼女紅葉もまた、戸隠には縁が深い一種の伝説でもある。

 紅葉が舞うは、鬼女紅葉ののう『紅葉狩』。

 鬼無里の中でも、一等重要な儀式舞である。

 加茂と呼ばれる地域の、内裏屋敷だいりやしきを出発点とし、鬼女紅葉に関する鬼無里の神社や塚を回る。最後に、戸隠神社で舞って行脚を終える。それほどまでに怖れた鬼女紅葉の存在力は後世にも引き継がれるほど、強く今も戸隠の女性の憧れとおそれれを手にしていた。

 赤い単衣を纏い、歩くとしゃらんとなる簪を挿した紅葉の頭には馬の尻尾は見られないが、代わりに金粉を撒き散らし、倭色の千草色の簪は凛とした女性を表現している。

「紅葉、綺麗に出来たね」

「ありがとう」

 着付けはわたしの母、戸隠神社庵主あんしゅ(女性の神職)の仕事だった。紅葉の舞を見せたかったが、伊勢宮と柚季は仕事を終えてすぐ、伊勢に戻っている。神道特区の特使は多忙なんだと兄は静かに呟いていた。

 見物人たちが、一斉に視線を向ける中、紅葉は母に連れられて、階段を降りた。

 ――秋の鬼女紅葉祭り。わたしたち戸隠地区では欠かせない、盛大なる「はらえの儀式」であった。

「なんとか、当日に漕ぎつけたか」

 兄貴さまこと、戸隠慧介とがくし境内けいだいに出て来て、濡縁に腰を下ろした。わたしも隣に座って、巫女服のたるんだ袴を持ち上げた。

「兄妹で逢うも、久しぶり」と珍しくわたしに語ってくれたので、わたしは一番言いたい言葉を押し出した。

「伊勢宮宮司から言われた。わたしの想いは幼稚だって。でも、済まないって言ってたの」

「そうか」

 兄は短く告げて、振り返った紅葉に手を振った。

「行っておいで。最後にはここに戻ってくるのだろう。鬼無里の皆が楽しみにしているから。一日頑張ってくるといい」

「はい」紅葉は微笑むと、化粧を施した鬼女の笑みで、わたしにも笑いかけて、ひらひらと手を振った。紅葉は手水を済ませて、大きな榊を手に、再び、ゆっくりと階段を降り始め、わたしたちは歓談の続きになった。

「紅葉さんと、呪符で喧嘩したと聞いた時は冷や冷やしたが、それなりに付き合っている様子だ」

「すっかり、お友達だけどね」しょんぼりとしたわたしの肩を兄が叩く。

「おまえは、強いよ、妹。紅葉さんが好きだったのだろう」

兄なりの慰めを貰って、わたしは唇を震わせた。

「わたし、ずっと、前の紅葉を思い出し続ける。兄貴さま。でも、もうわたしの紅葉はいないから。紅葉を幸せにしてやって。何も、企みなんかないんでしょ?」

 兄と紅葉が寄り添う姿を見ていなければ、きっと今も兄を憎んでいただろう。しかし、何かに耐えようとする姿と、伊勢宮に謝られてしまっては、わたしの幼稚な恋などひとたまりもない。妹であろうと、情にはほだされない、清廉な頬がぴくりと動いた。

「妹、きみには言っておくべきことがあるのだが……舞が跳ねたらにしよう。今日は鬼無里でも一番大切な神事だ。我ら氏子も為すべきことをしないと、紅葉さんに嫌われるぞ」

 遠くから、お囃子の音色が聞こえて来た。舞の行脚が始まった。

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