6:偶然のふりの必然たるもの②

「戸隠の巫女は、猿神でも憑いているのか」

 声を掛けられた弾みで、わたしはいよいよ手を滑らせ……まっさかさまにはならなかった。伊勢宮がしっかりとは行かなくも、顔を顰めて抱き留めてくれた。

「……あんな場所を教えるのは、伊勢の悪戯狐だろうが、責めないでおくよ」

 そっと下ろしてもらいながら、わたしは伊勢宮に対しての不信感を露わにした。

伊勢宮はわたしの態度に気づくと、ふ、と微笑んだ。

「決して仲違いを仕組んだわけではないよ。きみたちは、本当に仲が良すぎる」

 頭を下げる伊勢宮に言葉が出なかった。戸隠の巫女に、伊勢の宮司が頭を下げたのだから。伊勢宮に微笑まれた途端、わたしの緊張の糸はぷつりと切れたらしい。

わたしは気づくと、伊勢宮の前で、大量の涙を浮かべ、零し始めていた。

 何もかもを吐き出したい気持ちで涙を絞り出した。

「紅葉、紅葉……っ……うう、う……」

 紅葉の名を呟き、伊勢宮の腕を掴んで、肩を震わせる。わたしより僅かに背が高い伊勢宮は、責めずに、嗚咽を堪えないわたしの上から声を降らせてきた。

「昔から、夜鷹の目で見て来たから知っているよ。いつも一緒で、まるで子猫のようにじゃれあっていたね。きみは走っていく霧生紅葉を追いかけて、ふたり、いつしか並ぶんだ。シロツメクサで冠を作った時、霧生紅葉はこぼれんばかりの笑顔で、きみを見ていた。何度も何度も、きみに惚れては、嬉しさを噛み締めて。いつだってきみたちは魂までも、一緒だ。見ているこちらがどうしようもなくなるくらいだよ」

 急に過去を振られて、言葉を出し損ねるわたしに反して、伊勢宮は饒舌だった。勝手なわたしの脳裏は、慰めになる言葉を勝手につなげ始める。わたしは洟を啜り、聞いた。

「……魂までも、わたしたちはずっと一緒なんですか?」

「ああ、伊勢の八咫鏡が証明したのだからな。それに、きみの母上が答えを告げただろう」

 そうだ、確かに母は、魂鎮めは紅葉だと。早急に、祭祀の執り行いをして、兄と二人掛かりなら、悪しき魂も、お帰り願えるでしょう――と。

 紅葉のなかに、それほどまでに、恐ろしい悪しき魂がいる。

 あの、明るくて、誰にでも首を突っ込み、でも、わたしの背中に隠れる紅葉の中に、凶悪な魂がいるなんて信じられない。

「ごめん、信じられない……紅葉は、誰より明るくて、優しい子だから」

「魂というは、不思議で何度でも、何度でも存在の中で鬼ごっこを繰り返し、本来の自分を思い出させる核だ。鬼ごっことはこの世界の転生の魂の咎を表した遊びだと言われている。誰かが触り、するとそいつは鬼になる。潜在意識が目覚め、鬼になる。霧生紅葉は一番危険な魂を引き継いだ。伊邪那美大神の神魂だ。必ずや、天命を起こすだろう環境にはあった」

 伊勢宮は、「子供を鬼にするには、鬼の親が要る。そうして育った子供は天命に結びつくのやも」と言葉を逃がした。

 ――天命。わたしはすがさず聞いた。

「天命とは何ですか。伊勢宮……宮司は知っているんですか」

 伊勢宮は、少し伸びた髪を緩く振った。

「知っているが、見た覚えはないよ。ただ、我が伊勢も、随分天命には苦しんだ記録がある。その歴史がしっかりと在るだけだが充分だ」

 どうやら伊勢宮は、式神の夜鷹を待っていたらしいが、諦めたのか、やがて腕を下ろした。

「子猫たちを引き裂いてしまうことを、許せとは言わない。それに、霧生紅葉のきみへの想いは深すぎる。幾重にも絡まってしまった。先ほど想いは黄泉に堕ちた。二度と目覚めないだろう。だから、済まないと言っておく」

「黄泉に落ちた……? 戻らない……?」

 理由もなく、また涙が滲んだ。気づけば、わたしは伊勢宮の腕を掴んでいた。

「紅葉が、何をしたというんですか! ただ、わたしを好きだっただけなのに取り上げるなんてひどすぎます!」

 腹の底が焼け付く。どこか点火しているのに、火が燃え上がらない矛盾と、空しさが余計にわたしの怒りを煽り始めた。

「なら、わたしの紅葉への気持ちも、取り上げればいいんだ! わたしにも同じくすればいい! やれるものならわたしも!」

「ふざけるな!」

伊勢宮はまるで何かを憎む目つきで、わたしをねめつけた。神道特区の実力者の眼力の恐ろしさをぶつけられて、わたしはふらつきそうになった。

瞬きの少ない目が、わたしを映し続けている。

「ひとつ教えよう。霧生紅葉は、全部を知って、あの魂鎮めを受け入れた。それは、きみのための他にあるまいよ。それなのに、きみの想いはなんだ。同じにしろ? あまりに幼稚だ」

「わたしの、ため……?」

「ちょこちょこ正気を取り戻しては、何度も何度も抵抗していた。紗冥ちゃんのため、と何度聞いたか。さすがに初日は暴れて、それらしい力を見せたよ。世界を揺らがす悪しき力だ。だから、霧生紅葉には全てを話し、忘れさせることを同意させた。神社は、嫌なものを忘れさせ、歩かせるも使命だからと」

 伊勢宮は榊の葉をもぎ取ると、玉串奉奠たまぐしほうてんの要領で、小さく振って見せた。

「繋がりはもはや数えるも不可能な、遥か古代から続く。ずっと近くに生まれようとしては、何かに阻まれて。きみの神魂は瀕死状態だ。何があったかは知らぬよ。それでも、きみたちは無謀にも、また恋を育てるのだろうが、それは天命を育てるに等しい。時間は稼げた」

(わたしの魂が、瀕死?)それも衝撃だが、天命のほうに食いついた。

「その口調だと、わたしたちが、天命を起こすと聞こえる」

 伊勢宮はきっぱりと続けた。

「遅かれ早かれ、鬼無里では天命が起きる。それはきみたちが生まれた時から決まっている。だが、我々は天の命の前でも、抗って使い果てて生きる。それが人の生きる命だ。有限と無限の相克だな。規模が大きいだろう、止められまい?」

 最後は優しい口調に戻り、ようやく姿を現した夜鷹に「おかえり」と呟き、揃えた指を翳した。

「式神具現調伏。伊勢の我が元へ還り眠れ」

 夜鷹は輪郭を光らせ、一枚の紙になって、伊勢宮の手の中に落ちた。

 呪符を丁寧に袱紗ふくさに挟み込み、袂に仕舞うと、伊勢宮は再び告げた。

「有事には、伊勢に来るといい。きみたちには知る権利がある。私はそこに隠れている悪戯狐を連れ帰り伊勢でひと仕事だ。帰るぞ、柚季稲荷。葉っぱ載せて、狸の真似事かい」

 ぴくぴく、と茂みが揺れて、柚季がのそりと立ち上がった。

「柚季さん!」柚季は枯れ葉を振り落とすと、狐の耳をひくひくさせた。

「紅葉ちゃんは、慧介殿が裏参道から送り届けよった。元気やで。罰は受けますわ……伊勢の斎宮の機密を暴露したんやから」

「我慢できなかったのだろう。憑いた狐の気まぐれだろう。織り込み済みだ」

「そか。紗冥、うちらを責めんといてな。誰かがやらなあかんこともあるねんな。伊勢は、そういうお土地柄で、伊勢宮見とればお堅い……」

 俯いたわたしをおもんばかったのか、柚季は軽口を引っ込めて、ぴょい、と尻尾を揺らして、伊勢宮の傍に駆け寄った。振り返って手を振った。月夜の中神社を去っていく二人の姿に、もしも、紅葉が隣にいたら、と寂しさを隠せなくなった。

 紅葉は生きているのに、わたしの紅葉ではなくなった空虚感は誤魔化せない。でも、それが天命を防ぐと分かった紅葉が受け入れたなら、わたしも受け入れるべきだ。

 奪われた気持ちでしょんぼりしたところで、隣に緑の気配がした。涙目で見やると、龍仙が立っていた。龍仙は近づくと、風を揺らすのである。

「――潔い人間がいるもんだな。神道に携わるものは我らに近い」

「龍仙……出て来ていいの?」

「紗冥。おまえを泣かせたままにすると、主の慧介様が悲しむだけでなく、俺を責めるんだ。あの、剣は持っていないな?」

「うん、寝殿に置いてある」龍仙はどうやら緑青りょくせいの剣が苦手のようだった。

「明日、紅葉、本番なのに……大丈夫かな。ねえ、紅葉の中の魂が、天命起こすって本当?」

 龍仙はやはり、何も言わなかった。知っているとも、言えないとも。

 明日が終われば、と思っていたが、事態は思った以上に大きい気がする。不安は尽きなくて、でも、紅葉がそばに居ると思えば、不安の波に飛び込まず、踏み止まることができた。

 例え、あの、笑顔が見られなくてもいい。紅葉が納得して、兄と寄り添う道を選んだとしたなら。何か思惑があって、紅葉を護ってくれたなら。悔しいけれど、魂が瀕死だそうな、無力なわたしに適うはずがない。また、明日は紅葉はわたしを憎むレベルに戻っているかも知れないけれど、何度でも、貴女に恋をするつもり。

 この時のわたしには、まだ、紅葉との恋以外、何も見えていなかった。

 まさに恋は盲目の言葉を噛み締める過去になった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る