5:偶然のふりの必然たるもの①

「さて、行こうか」

 立ち上がった時、隣のベンチに重さを感じた。ちらりと見ると、上級生らしい女子生徒が、見事ななみなみの髪を揺らして、わたしを見ているところだった。

 真っ黒の髪に、真っ黒の目。制服を着ているが、またはち切れそうな胸のシャツが苦しそうだ。すらりと伸びた足はソックスに包まれていて、太ももが見えるが、足と腕には包帯を巻いている。頬には無残なひっかき傷まで。首元にも大きな絆創膏。

「ごめんなさいねぇ。いちゃつきを見るつもりはなかったのよ」

 ごほっと目元を赤くした女子は、肩を竦めて、くつ、と眉を下げて困惑しながら笑った。

「ねェ、のね? 影が伸びて、美しかった」

 ばさっと本を落として狼狽したのはわたしのほうだ。女子はくっと笑いながら本を拾ってくれた。指にも小さな擦り傷がある。

「傷だらけでしょ? 全く。はっきり言ったほうが良いわね。アタシの鴉の式神、ぜーんぶぶった切られて、操ってたアタシのところまで飛ばしてきたのよ? どんな野郎よ」

「操っていた式神? あ、鴉の術の!」

 まさか、と思うが、どうみてもそうとしか思えない。おそらく、鴉の式神を操っていた術者だろう。……口付ののぞき見はともかくとして。

「そう、アタシの可愛い鴉ちゃんたち、再起不能で丸腰よぉ。いるのはスズメちゃんだけ」

「スズメ……」

「なぁんか術、かかってんなぁと思って、追ってただけなんだけど見つけちゃった」

 女子はよよよと「あたしの可愛い鴉ちゃん三姉妹」と泣いて見せたが、それどころではない。キスを視られていた事実に、わたしはどうにもならなくなった。

「根性悪い夜鷹が飛びかかって来たのよ。呪符を奪われてしまったら、式神は終わり」

 じゃね、と女子はひらりと立ち上がって去ろうとした。わたしは慌てて名前を聞いた。

「わたし、戸隠神社の、戸隠紗冥、二年です。あの、貴女は」

 鴉女子はくつ、と小さく笑うと、丁寧に引いたアイラインの双眸をわたしに向けた。

「熊野奈津美。ああ、土蜘蛛と言えばいい?」

 くすりと笑って大人びた三年の熊野は素早く姿を消してしまった。

「土蜘蛛と言えばいい?」の言葉は衝撃を遺した。まさに、伊邪那美に味方をした、妖怪鬼に例えられる名前だったからだ。

 鬼女紅葉の能にも、土蜘蛛は現れる。これは偶然ではない。

母が言う通り、紅葉の名前も偶然ではないのだろう。

「まさか、伊邪那美と、鬼女紅葉は繋がっているの……?」

それならば、紅葉が舞を踊るのも、伊邪那美の悪しき神魂として警戒され始めたのも、全て、偶然か?

 天命を起こすわけには行かない。

 その一心で隠される真実も、偶然ではないのかも知れない。

 部屋に帰り着いて、天井のない頭上を眺める。昔ながらの和風の家は、吹き抜けになっていて高さがあった。

 熊野奈津美……同じ学校の生徒だ。

 式神は昔は陰陽師と呼ばれる術者が善悪を知るために、紙に自分を宿したところから、始まっている。しかし、神道特区の実力者たちは、自分を投影し、偵察に使うことも多い。熊野奈津美は、そうとうの術者ということになる。

「美人だったな……」

呟いて、紅葉のふくれっ面を思い描いた。窓から見える、奥社の灯りを遠く眺める。

『まるで黄泉やな』と柚季が告げた通り、閉門後の神社は、まるで昼間と顔を変える。彪隠しが入れないほどの結界、五榜ごぼうの印は生きているが不思議な程清められた空間だ。従って、虫までどこかにいなくなる……はずが。

 窓辺にモフモフしたものが揺れた。わたしは窓辺に歩み寄って、格子を嵌めた窓を開ける。千鳥格子もまた、屋内に不浄が入らないように考え出された神道由来だ。

「柚季さん!」柚季は窓の下にしゃがんで、足を伸ばしていた。傍で二匹の狐の子供が丸くなっている。

 柚季は「ああ、ここに来てもうた。とうとう、逃げてもうた」と項垂れると、格子をがつんと掴んでまくし立てた。

「うち、もう、我慢できへんかった! いくら、紅葉ちゃんの頼みでもな……!」

「ごめん、わたし、全く話が」

「紅葉ちゃんや! 見て来い。覗きは得意技やろ!」

 なんという言い方だと思いながら、わたしは薄手の上着を羽織り、柚季がしゃがみ込んでいる窓の下に回った。

「紅葉に何かあったの?」

「何かやない。魂鎮めがどういうもんか、知ってるのか聞いてるわ」

 狐憑きの柚季は感情の起伏が激しいのだ。わたしはまくしたてる柚季の前にしゃがみ込んだ。柚季は膝を抱えて、わたしに視線を投げる。

「魂鎮めっちゅーのは、所謂 “ひっくりかえし”や。目覚める因子の事象を封じ込める。伊勢の若宮さまのお得意技や」

 伊勢の若宮とは、伊勢宮の話だろう。

「うちは、伊勢宮を裏切れへん。摂末社せつまつしゃの恩がある。でもな、手首が時折痛むんよ。うちも魂封じされとる最中や。だから、分かる。紅葉ちゃん、ほんまにあんたが好きなんやで?!」

 わたしは返答に困った。しかし、嘘をついても始まらないので、素直に告げた。柚季の前では嘘はつけない。そんな気がするのは何故かと思いながら。

「よく知ってる。でも、柚季さん、わたしたちはもう一度恋し始めてる最中なんだ。紅葉は、奥底までは操られてないから、安心して」

 柚季は目をぱちくり、とさせて「どんな色男や」と頬をまた染めたが、「こんな機会はないと思って」とわたしの二の腕をしっかりと掴む。

「邪魔する夜鷹は、遠くまでお仕事中や。紗冥は知るべきや」

「うん、わかった」

 迷いはない。わたしは立ち上がると、普段は夜鷹が巡回していた奥社に足を向けた。奥社は小さなうだつが重なった宮であり、築地塀つきじべいに囲われた戸隠神社の最奥にあった。東壁の明り取りの窓から淡い光が漏れている。高度があるから、誰が開けたのかは定かではない。わたしは傍に生えているさかきの種類の木に指を掛けた。

 真っ黒の幹は桜に近いが、桜が咲くわけではない。注意しながら登って、ようやく明り取りの格子窓までたどり着いた。覗いて心臓が止まりそうになった。

 紅葉は吊るされていた。それも、茅野環ちのわ潜りのような大きな綱に、両手を挟み込み、足は水の中。顔には面が被せられている。一瞬怒りが駆け巡り、腹の底を焼き尽くしかねない激情に苛まれたが、ふと視線を上げた紅葉と目が合った気がした。

 傍には、兄も母も立っている。紅葉は幾重にも注連縄で巻かれ、ただ、祝詞を流し聞きさせられているようにも見えた。

 祝詞までは夜風が啼くので聞き取れない。呪術というも違う、不思議な祝詞で、聞いた覚えがない。祓え言葉である。

 やがて、祝詞が止んで、伊勢宮は歩み寄り、紅葉の面を取ると注連縄を解きにかかる。水の中から出された足は真っ白で、わたしはこんなところではなく、出口にいれば良かったと後悔した。

 歯が微かに鳴った。兄の慧介が、紅葉に歩み寄り、紅葉は安心したように、頭を預ける。二人は固く手を握り合って、同じような悲痛な表情をしてみせたのだから。

 伊勢宮は兄に小さく頷くと、腕を伸ばして、呪符を構えた。紅葉をしっかりと抱き留めている兄は羨ましかった。

 紅葉を支えるのは、わたしだったはずなのに。

 唇を噛んだところで、樹々を掴んでいた手が離れた。

「うわっ」寸ででぶら下がったところで、伊勢宮が外に出て行くが見え、またわたしは体制を整え、格子窓に縋った。

 兄と紅葉はまだ、板張りの上で、寄り添っている。時折、紅葉は手首の石を鳴らしながら、口元を押さえて微笑んでいる。

「……両想い、か……」

 ぱさついた髪を押えて、わたしは息を吐いた。兄が紅葉を利用しているのではないのなら、いい。婚約も、本当に好きならば、わたしが出る幕はもうないだろう。

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