3:想い出の翡翠②

といつもの口調で返して来て、また周辺を見回して懐かしさの息を吐いた。わたしの紅葉だ。涙をぬぐっていると、気が付いて首をかしげて見せた。

「ああ、ごめん。気にしないで」

「ん? 数日、靄がかかった気がするんだけど……足が痛いし、舞もやってるよね」

呟いて、また周辺の話題に戻って行った。

「鬼無里・戸隠には、鳥居がいっぱいあるよね。神道の総結集みたい。たしか、こっちに」また山を平気で歩き回り始めたが、幼少とは違って、背丈もあるし、山道にも慣れている。それに、ご神木と神薙もあの頃よりは大きいし、迷って泣くこともないだろう。

「あったあった」と紅葉は小さな祠の前にしゃがみ込んだ。

「ここで、夜越ししたよね。うふふ、わたしたち、小さかったね」

 洞(うろ)に潜り込んで、紅葉はわたしの手を引く。その時、鴉が降りて来て、祠に止まった。嘴を向けたが、紅葉に対してはギャー、ゴロゴロと鳴き声を変えた。

「紗冥ちゃぁん……鴉が」

「それ、甘えてる声だよ」

「ん、可愛い。逃げちゃうかな。ちょ、ちょちょ」

「紅葉、野性の鴉を撫でないで。細菌や病気を運んで来てるって習ったよね」

 紅葉ははっと手を引っ込めると、キュウキュウと鳴く白混じりの鴉に向かって手を振った。その時、樹々が揺れて、夜鷹が鋭い滑空で、祠に突っ込んだ。

「伊勢の斎宮の夜鷹だ! 鴉たちを狙ってる!」

 夜鷹はわたしたちの制服を掠った。紅葉の叫んだ通り、狙いは三羽鴉らしかった。鳥同士の食いつく争いが始まった。鳥たちの叫び声は高く響き、翼の羽が舞い散った。

鴉の嘴は、獲物を逃がさない幅牙のような構造があり、他の鳥よりも爪も大きい。しかし、夜鷹のほうが一回り大きい。夜鷹はまっすぐに鴉に飛び込み、三羽を蹴散らした。一番大きい赤鴉は逃げる間もなく、首を咥えられ、地面に叩きつけられる。

断末魔の声にわたしたちは怯えたが、すぐに正体は分かった。伊勢の夜鷹が鴉だった紙片を咥え、高く飛び去ったからだ。

「――式神……? ってこと?」

「本当に、わたしたちを見ているんだ。あの、伊勢の斎宮とやらは」

「なんか、怖い。紗冥ちゃん。鴉、消えちゃった」

「式神だったんだよ 術を解かれて、呪符本体を奪われたんだ。術者が無事なら、また飛んで来るよ。散らばった紙片を見てみよう。呪符自体は夜鷹が持って行ったけど……」

 わたしたちは紙片を集めたが、手掛かりはなさそうだった。

 丁寧に山にした上から、土を掛けた。

(伊勢宮稜、か……伊勢の神と言われても、不思議はない。兄貴さまに似ている)

 柚季の怯えようから、どれだけの神道の力を持っているのか想像はできなかった。もしかして、わたしたちは一番敵に回してはいけない相手を二人も敵に回したのではないだろうか。疑問がもたげて恐怖がわたしを揺らがせた。

また戻って来た夜鷹は次々と鴉に襲い掛かり、結果、三枚の紙片を咥えて飛び去った。

 戸隠山の梟が鳴き出し、夜を知らせている。逢魔が時の悪夢とも言えた。

「いくらなんでも酷いわ。あれじゃ、操っていたほうも、無傷では済まないに決まってる」

 紅葉はぷんすかと怒りを口にした。

「式神をボロボロにされると、精神的に辛いって聞いた。心まで傷つくことがあるって」

「大嫌いと言われても同じなんだけどな」

「大嫌い? 誰が?」

「あんたが、わたしに言ったんだけど」

 紅葉は動作を止めてから、「冗談やめよっか」とひらひらと手を振った。

「世界が、消えてもあり得ないよ。わたし、紗冥ちゃんを愛してるもの。いい? 世界で二人きりになりたいくらい。紗冥ちゃんを嫌いになる時は、きっと自分をもっと嫌いになってるわ。大好きよ、ん、いつか、約束のちゅー、してね?」

 あっさりといつもの紅葉に戻られて、拍子抜けした。

「したいけど……もうちょっと待って」

「はーい。そのうちぎゅっとして? 兄貴さまとの婚約があっても、わたしは紗冥ちゃんに触れられていたほうがいい。わたしの全部、触らせてもいいくらい」

「全部だと?!」

 驚く前で、紅葉は「証明しよっか?」とわたしの手を持ち上げて、ほよんとした胸に乗せた。ぼふ、と頬から不死鳥が飛んで行った。「んっ……」とその手をするり、と下腹部に誘って恥ずかしそうにチラ見をする。いよいよくらくらしながらの、降参の声を出す頃合いだった。 

「善処するから。手、離して。どうにかなっちゃうよ、ここまでにして」

「疑う紗冥ちゃんが悪いんだよ? 未だにちゅーも出来ないし?」

「だからっ! 普通はしないんだよ」

「普通ってなに?」紅葉の声が一段と低くなった。

「体の、ここで、愛し合うんだって男の子に聞いた。なら、紗冥ちゃんに教えるのも当然の話でしょ、紅葉の大切な部分、しっかり愛して貰わなきゃ」

 同性でここまで積極的な彼女も珍しいが、紅葉にとってはなんらおかしな部分はなく、いつまでも受け止められないわたしが単に意気地なしな気がして来た。

 霧生紅葉の愛の勢いは、増している様子だ。すっかり元通りどころか、パワーアップした誘惑に、わたしは嬉しさと焦燥を同時に抱え、脳では言葉が右往左往した。

「……すっかり夜だね」

「またはぐらかすし! うん、山、降りようよ」

 紅葉がいつもの調子になったのは、この鳥居を潜ってからだ。神域を示す七三五縄が張り巡らされている。伊勢や兄の術が効かない神域なのかもしれない。

 鳥居のちょうど真下で、わたしは足を止めた。「ずっと、一緒にいよう」過去の言葉を思い出して、一歩さがると、紅葉も一歩下がって付いて来る。紅葉と一緒にいられるとしても、山で暮らすわけにもいかないだろう。

「紅葉、ちゃんと……」

「あたしと? なに? また、言いかけてやめちゃうの?」紅葉はもう慣れているようだった。実際は「ちゃんと守るから」と云いたかった。代わりに、柚季の「触れたらいいんちゃう?」の言葉を思い出し、紅葉を抱きしめた。温かい体温を忘れないように、わたしを思い出して貰えるように、しっかりと。今はそれしかできないから。

「どんなときも、あたしを、忘れないで。どんなに眠らされても、忘れないでよ」

「もちろんだよ。ん」

 紅葉は嬉しそうに甘く息を吐き、わたしの少し寂しい胸と鎖骨に頭を預けてくれた。すり、と頬ずりの感触に、夕陽に照らされた紅葉が透けて見えて、消えてしまう前にとわたしは紅葉の顎を持ち上げる。

 期待に膨らむ紅葉の唇はシャボン玉同士の弾ける感触であって、吸い付く心地よさはそのまま達してしまうほどに快感だった。繋がった証拠の銀糸が夕陽に輝いて、ピアノ線のようにきらめいていた。

 口元を隠して、なぜかわたしのほうが頬を熱くしてしまい、紅葉は髪の尻尾を揺らして、からかった。

「……しちゃったね?」

 ――いつか、口づけのちゅーしてね。言われて五分後。早々に約束を果たしたのだった。

 わたしたちは、鳥居を出て、月夜の下、やっぱり紅葉は距離を取った。

 耐えて見せる。せめて、舞が終わるまでは。唇のあたたかさは、憶えておこう。

 スズメが可愛らしくチュンチュンと鳴いていた。

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