2:想い出の翡翠①

 わたしたちは、図書室で、席を空けて座った。紅葉は鬼女紅葉の本の読書に余念がなく、わたしは古事記の概要を目で追い始める。

 授業で習った部分は僅か冒頭だけだった。伊邪那美と伊邪那岐のその後は敢えて説明はなく、黄泉がどこかも分からないが、概ねこんな内容だ。

***

 伊邪那美を苦しめた元凶の子、ヒノミカヅチに父、伊邪那岐が剣を振るった。それでもまだ生きている蛭子の赤子はそのまま河に流されて、まもなく伊邪那美も息を引き取った。その刃から垂れた血は、負の神を産み、それは地中に浸み込んで消える。

元凶の子を処分して、それでも諦めきれない伊邪那岐は伊邪那美を迎えに、黄泉平坂へ踏み込む決意をし、(奇跡的に)伊邪那美のいる砦までたどり着く。しかし、伊邪那美は帰れないと告げて、それでも伊邪那岐は岩扉の前で、我妻を説得する――。

***

 そこで本が陰った。振り仰いで見れば、紅葉が「古事記なんかに興味あるんだ?」と覗き込んでいる。「隣、座るね」と座って、普通に椅子を引き寄せ、ページをめくり始めた。

 時折落ちる遊び髪を何度も、何度も耳掛けする指先に惹かれてみていると、紅葉も気が付いた。

「なぁに? あたしが隣にいたら、いけないわけ?」

「ううん、綺麗で可愛いな、と……。あ、ごめん、こういうのやめろって言われてたのにね」紅葉は驚いた顔で、わたしを見ていた。その時わたしは思ったのだ。

恋を封じられたなら、何度でもすればいい。紅葉となら、何度だってリスタートできると。

 ただ、こちらにも意地がある。何度でも、目覚めるまで口説いてやるつもりで、わたしは紅葉を見詰めた。紅葉もきょとんとしてわたしを見て、目を引くように少し反らせた。

「いきなり、なんなの。……ねえ、窓のほうになんか来てない?」

 また邪魔かと思ったが、「あれ」と紅葉がいつものように目ざとく見つけた外には、赤い鴉が止まっていた。続いて、白と黒。

「珍しいね。赤い鴉って初めてみたわ」

 好奇心は変わらないらしい。窓辺に駆け寄って、「ちょ、ちょ」と指先を向ける動物好きも。しかし、鴉にまで邪魔をされたわたしは、またしても撃沈するしかなかったが、紅葉の態度は少々軟化した。ツンツンしてはいても、嫌悪感や憎悪、は感じなくなった。

 夕暮れの中、以前と同じように、並んで歩く。通常の幸せを噛み締める。遠くで、店じまいの音が響く斜陽の中、わたしは問うた。

「良かったら、友達にならないか?」

「友達?」

「うん、お友達から、お願いします」

 紅葉は軽く頷いて、「それならそう言えば良かったのに。いいよ」と八重歯をちらっと見せて笑った。

 紅葉の中で、わたしは障害になりたくない。江ノ島の一件も、胸に秘めることにした。

 奇妙な話、紅葉は麻紐に繋がった石の中に、想い出の翡翠を持ち歩いていたのだから。

 今は、それだけが救いだった。

***

その後の紅葉との関係は、穏やかに続いた。紅葉の手首の石は増え続けていたが、鬼女紅葉の祭が開催される二日前の話である。

 紅葉は蕎麦とソフトクリームには興味を示さず、嫌がっていた苦いお茶ばかりを飲んでいた。兄を締め上げることも考えたが、伊勢の斎宮が味方するかも知れない。

柚季があれだけ怯えている様子だけでも、伊勢宮稜の恐怖は知れるところである。

 なら、伊勢の二人がお帰りになった後でも遅くはない。わたしは伊勢宮稜が怖かった。

「それでね、ここ、酷い擦り向けで、どうやっても外れるのよ」

紅葉は舞の猛特訓で赤く腫れあがった足首を見せた。何度手当をしても、次の練習で擦りむけて、皮が二重に捲れてしまうと悩んでいた。

「お母さんにやって貰っても、あの人わたしに愛情ないからかなあ。痛いし」

「そんなことはないでしょ。育てて貰ったのに、だめだよ」

「あんたのほうが、よほどお母さんらしいわ。何かいい巻き方知ってる?」ほら、と差し出された足を掴み上げて、裂傷に近い傷を視る。巫女も足が擦りむけるが、これは酷い。わたしはハンカチを切って、ガーゼ代わりにしてから、布を巻きなおしてやった。

「あ、痛くない。ん、ありがとう。今夜で、戸隠神社の祈願も最後か~」

紅葉は夕焼けに向かって伸びをして、また空に目を向けた。

「仲良し鴉が……山に入って行ったわ」

 山とは戸隠山のことである。かつて、紅葉と一晩を過ごした霊山は叱られてから踏み込んではいなかった。ほんの出来心で、わたしは紅葉を誘った。

「まだちょっと時間あるし、追いかけてみようか?」

 ほんの、出来心だったのだ。紅葉と普通に過ごしたい、可愛い少女の小さな願いだった。

***

『紗冥ちゃぁん……どこぉ……紅葉、独りは嫌だよ……』

 山に紅葉が逃げ込んでしまい、鬼無里は大騒ぎになった。しびれを切らしたわたしが追いかけた幼少での話である。紅葉は途中で迷ったらしく、木の下に座り込んでいた。もし、神木の下にいなかったら、見つからなかったに違いない。その時大きく揺れていた樹々こそが、ご神木で神薙だったからだ。樹の下には、小さな祠があって、紅葉の震えに同調していた。 わたしたちは、その祠のそばで、夜を迎え、星空の下で、約束をした――。

***

「どこまでいくんだろ、鴉ちゃんたち」

過去を同じ道をたどり、わたしたちは飛び続ける鴉を追って行った。不思議な色をした鴉は夜鷹と違い、滑空はせず、むくり、むくりと休みながら飛んでいる。後で知ったが、鴉でも、ホシガラスだったらしく、真っ白に見えたのは、羽の模様で、きわめて珍しく、西の神道禁止区域からの越冬によく見られる種族だった。

 対する赤い鴉は、どうみても、ハシブトカラスで、という変わった異種、最後の黒い鴉は田んぼでよく見るハシボソカラスでギャーギャーやかましい声を響かせては、神社を脅かす「悪の鴉」である。

 そもそも系統の違う三羽が仲良くくっついているが珍しい。

仲違いも忘れて、わたしたちは数年ぶりに戸隠山に踏み込んだ。

一足早い冬の大地を踏みしめると、さくり、と冬の音がした。

「あ、鳥居に止まったわ」

 戸隠山のいくつもの鳥居のうち、一つだけ歪曲している鳥居があった。鴉はその鳥居に止まり、ムクムクと丸くなった。わたしたちはなんとなく、鳥居を潜り、紅葉がぱっと鳥居を振り返って、元気な目を向けた。

「寝てるのかしら。……ここ! 懐かしいね! 覚えてる? わたしがいじけた時、紗冥ちゃん迎えに来てくれたのここだよね! あはは、怒られた怒られた」

 口調の明るさと「紗冥ちゃん」に、わたしは思わず紅葉の頬を両手で強くぱし、と挟んでしまった。紅葉だ。たぶん、イザナって来るほうの。

「紅葉? 分かるの? 戻ったの?」

 紅葉は不思議そうに、「戻ったって? うふふ、変な紗冥ちゃん」

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