9:嫌いなんて言わないでよ

「……おはよう、紅葉」

「おはよ」と、短く挨拶を交わして、わたしたちは戸隠の山道を歩いた。紅葉は相変わらずの馬の尻尾を揺らしているものの、少しイメージが違う。

 魂鎮めから、一週間――。

 いつも迎えに来る馬のしっぽが今日も見えず、わたしは調子を崩していた。

 結局紅葉と逢えたのは、戸隠神社の大鳥居だった。

 手首の茅野環に気が付いた。確か柚季が同じように巻いていたが、紅葉のほうは、小さな翡翠の塊がいくつもぶら下がっている。

「ああ、これ? 夜の鬼女紅葉の舞の祈願。頑張ると、慧介さんが一つずつ増やしてくれてるの。御守りだって。不器用なのに、ちゃんと紐に通してくれて、紅葉、幸せだよ」

 紅葉は慧介の名前に、頬を赤くして、嬉しそうに目を伏せた。今のほうがしっくりする気がして、わたしは半ば失恋気分だ。「あんたなんか要らない」いつ言われるのだろう。歩き出そうとした腕が突っかかった。見れば、紅葉が袖を掴んでいた。

「紅葉? 動けないから袖、離して」

袖を掴んでいた紅葉は、慌てて離し、手首を押さえた。ぐるぐる巻きにされているのは麻紐をきつく編んだ注連縄の小さいものだから、チクチクするのだろう。

「大丈夫? 擦り切れてるんじゃない」差し出された手に鈍い痛みが走った。紅葉は泣きそうな目で、わたしの手を振り払い、さっさと歩いて行ってしまった。ムカッと来て追いかけた。紅葉は怯えるように速足で逃げ、わたしが追う。互いに巫女なので、速足で並んで、追い抜いて紅葉を止めた。

「なんなの? ああ、わたしが嫌いになったなら、そう言えば?!」

「……い」紅葉はぼそりと告げて、力いっぱい叫んだ。

「大っ嫌い! 嫌い嫌い嫌い!」

がーんとしたわたしの前を「これでいいの?!」と駆け抜けていく。横流れになった滴が頬に当たった。

「泣くこと、ないじゃん……女のコ、分からない」

「確かに、分からへんなぁ」

声につられて鳥居を見ると、大鳥居の上に、柚季が座って足を揺らしているところだった。

「器用だね。怪我しますよ。柚季さん」

「狐の跳躍力や。共存も便利やで」と柚季は飛び降りようとした。最中に、狐がぽーんと逃げた。「なんやて?!」結局柚季はわたしの上に降って来て、「堪忍や堪忍」と砂ぼこりを祓ってくれた後で、神妙な声になって「振られたん?」と図星を刺してきた。

「ええ。きっぱりと。数年間の想いも冷める勢いで」

「紗冥ちゃんなぁ、片側しか見てへん。紅葉ちゃん、泣いてたやんか」

「泣くほど嫌になったんだよ。兄貴さまのほうがいいんでしょう。それならそれで、わたしの出る幕はないね。わたしは、以前の紅葉のほう、が」

 声が緩んだ。「よしよし」と頭を撫でられて、わたしは泣いた。いくら巫女で強靭でも、紅葉には簡単に泣かされる。

「大っ嫌いって言われたぁ……っ……も、わたしのことなんか、要らないんだ。女のコ同士なんてこんなもんだよ! 紅葉、紅葉……」

「せやな、甘えてる紅葉ちゃんに甘えてるあんた、愛らしかったもんな」

 言葉に涙が引っ込んだ。

「柚季さん、どういう意味ですか」

「そうやろ?」と慰めて貰っている前に、かつんと足音。見れば紅葉がぶるぶる震えて立っていた。

「この、ばかっ! 浮気者っ!」

 強烈な平手を戴いた。二発目を構えた手首を捕まえた。

「ちょ、待って、紅葉! あんたわたしを嫌いになったんじゃないの?」

 紅葉ははっと手を下げて、首を傾げた。

「よくわからないけど、超腹立つ」と呟いて、また手首を擦る。

「それ、外してもいいか、兄貴さまに聞いてみようか」

「あたしに甘えてるって、本当?」同時に背中を向けたまま、紅葉が呟いた。

「本当だよ、甘えて来る紅葉のほうが可愛かった。あたしはあんたに甘えられると、誇らしくなってたよ。でも、その思い上がりが悪いのなら、あんたのために、気持ちを封じる。簡単だよ。だからもう、逃げたりしない……で、大嫌いなんて言葉は」

 紅葉の右目から、透明の光が見えて、頬を滑った。紅葉は右目から涙を溢れさせて、わたしを見ていた。

「だから、嫌いなんて言わないでよ」

 ざり、と小さな足を引くと、紅葉は怯えの姿勢になった。

「まるで、よその野良猫だ。紅葉、兄貴さまが好きなんだね?」

 こくり。秒も開けない頷きに絶望している時間はない。わたしは嗚咽を聞き……嗚咽? 振り返ると、柚季が狛犬に乗っかって、号泣している音だった。

「柚季さん、人の神社の守り犬にハナミズ垂らさないで」

 柚季は盛大に洟を啜ると、紅葉の前にしゃがみ込んだ。子ぎつねたちが鳴き出した。

「あかんわ。あんたら、ほんまにあかん。伊勢の斎宮のやったことを、うちが言っていいものか……紗冥ちゃん、紅葉ちゃんよく見とき。紅葉ちゃん、慧介さんが好きか?」

「うん、好き」

「一緒になりたいか?」

「うん、なりたい」

 もう止めて、と耳を塞いだ瞬間、グワ、と霊気。

「よう見とけや! この、わからんちんが! 見いや、また母狐憑きおったから、うち、怒りの操作できへんからな! 言霊大爆発やで! 紅葉ちゃん、紗冥ちゃんが嫌いか?」

 紅葉は涙を浮かべて、「だいーっ嫌い!」と痛恨の一言を放ったが、わたしは気が付いた。紅葉は、わたしの大嫌いで片方だけ涙を流しているのだ。

「大嫌いなんでしょ。泣くほどに……?」

 柚季は切ない表情で笑った。

「……うちが出来るんはここまでや。うちな、仲いい二人に戻って欲しいんや。あんなに、大切にしてたやんか。あのな、ほんまに、見てられんから、斎宮が寝てる思って言うけどな」

 合間を夜鷹が眠そうに飛び回った。昼間が苦手らしい。ふらふらとして、翼を丸めて飛んでいる。紅葉が鷹を気遣った。

「ふらふらしてるわね。怪我でもしたのかな」

「ありゃ、主の伊勢宮が眠いからや。起きたんや。一晩の魂鎮め。それが何日も続いているからな。そんでもうちを見張るか。もうええわ。……学校やろ、いってらっしゃい」

「柚季さんたちは、いつまで龍社に?」

「紅葉ちゃんの魂鎮めが終わるまでやな。紅葉ちゃん、大変やろけど」

 紅葉は俯いてしまい、わたしたちは学校に辿りつくまで会話ひとつできなかった。

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