8:イザナイの呪

 確か、これが第一幕だった。第二幕もあるが、頭には入っていない。伊邪那美の前で、元凶となった子を殺した伊邪那岐の行動が好きになれなくて、最後に視た伊邪那美が憐れで、飛ばし読みをしてしまったが、話は第三幕まであったはずだ。

 もしかすると、読まなかった後半にこそ、諷示があったのかも知れない。本当に、紅葉がを持っていて、苦しむのなら、知らなければならないだろう。

 眩暈がしそうな話だった。

 母も兄も冗談を云う性格ではない。明日、図書館に行こう、と決めたところで、夜鷹が飛んだ。伊勢宮が一足早く、戻って来ていた。夜鷹を腕に止めると、伊勢宮はにこと微笑む。

「伊勢の斎宮さま」呼び名がたどたどしいと思いつつ、先ほどの訓告後で声が強張る。

「伊勢宮で良いよ」と伊勢宮はまた笑って、「紅葉さんは強いね」と額の汗を拭って胡坐をかいた。伊勢の斎宮と向き合ううちに、わたしもまた震えを憶えたが、伊勢宮はじっと胡坐を傾け、口元を支えながら、わたしを看破するように見ているだけだった。

「紅葉さんのことを話したいと思うと、話せないらしい。不思議に感じるようになった?」

 こくりと頷くと、伊勢宮は「はは」と軽く笑い、「失礼」と口元を押さえた。

「真面目に困ってるきみがなんか、可愛くて。魂鎮めは終わったよ。今日のところは」

「紅葉は何かに呪われてしまったんですか! まさか、江ノ島の……」

「扉に指が掛かった状態だ。私はきみのほうかと思っていたが、きみは紅葉ちゃんに……伊勢の斎王の私がこの言葉を使うもなんだが……誘(いざな)われた経験は?」

「イザナイ、ですか」

 伊勢宮はごほっと頬を火照らせて、視線を逸らせた。

「きみたちは女のコ同士だ。そういう考えは邪推だとは認知しているよ。それでも、あの紅葉さんは、そんなものはひょいっと飛び越えてきみに飛び込んでいたとしても疑わないが。戸隠紗冥、どうした?」

 わたしの脳裏には、『おむね、みせっこしない?』に始まった数々の紅葉との接触が次々と浮かんでいた。耐えきれなくなっている自分自身の変化をも顧みて、首を振った。

 ――しかし、紅葉が誘うことと、天命のどこに何の関係があるのだろう。

 伊勢宮は「鬼の話」をしてくれた。

 鬼とは、元は神である。しかし、神がランク付けを図った際、隠すべきものと、秀でるものに分けるために使われたそうだ。その陰は「隠し、消えたもの」の意や、「恐ろしく、遠くすべきもの」などの意味を持つ。陰は奥になり、鬼となる。

 カミは隠された身、なので、語源は同じなのだ。

「我が伊勢には、外宮と内宮があり、世界の陰陽を一手に抱えている。紅葉さんは、鬼になり果て龍をも呼る。古来から、鬼は鬼龍の字を当てたから、霧生も無関係ではないだろう。鬼無里において、おかしいと思わない? 鬼の無い里なのに、鬼がいることに怯えている」

 会話の途中で、「紗冥ちゃん」と明るい声がして、顔色の戻った紅葉が「えへへ」と顔を覗かせていた。

「紅葉! 大丈夫?」

 紅葉はちらっとわたしを見、すぐに視線を伊勢宮に向けた。

「もう、寒くないから、大丈夫。でも、あたし、その鏡は見たくないです、二度と」

「それはそうだろうな。汚い鏡で、驚きでもしたかな」

 紅葉は首を傾げると、兄に困ったように目線を投げた。

「確かに。随分古い鏡で驚いたのかも~。掃除、してあげよっか? あたし巫女だから、お掃除巧いよ?」

「お気持ちだけ戴く。鬼無里の巫女が触れては危険だ。きみは割りそうだから」

「ひっどい! あ、柚季さんが落としたアイス、奢って貰ってないです」

 明るい口調に、安堵処か、違和感を覚える。

 すぐに理由がわかったが、伊勢宮の強い眼力で、問い掛けの声は出せなかった。

 紅葉は「天命」も「伊邪那美」も「悪しき魂」もまるで聞いていないような、口ぶりだったのだ。 


 魂鎮めとはなんなのだろう。

 ――鬼無里において、おかしいと思わない? 鬼の無い里なのに、鬼がいる。

 伊勢宮の言霊はわたしの心に貼りつき、わたしは気が付いた。

 紅葉はわたしを素通りし、兄のほうへと向いている。

「紅葉……」

 あの紅葉は、魂鎮めで消されたのだ。

 戸隠と伊勢の斎宮の巨大な神通力に叫んで落ちる女性の魂の叫びを聞いた気がした。わたしは朝まで眠れなかった。こんなことなら、紅葉を任せるのではなかった!


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