7:八咫鏡の逸話

 八咫鏡とは、神器=神璽じんぎと呼ばれる古き神の道具で、やおろずのかみの意味を持つ八咫の名前を継いだ、神鏡である。直径は46.5センチ、重さは8キロ。で、中央には「内行花紋鏡ないこうかもんきょう」と呼ばれる細工が施してあり、くしくも仏陀の蓮と、異国の六つ星に似た装飾が特徴的だった。

「これを背負って来たんやで。細腕でもやっぱ男子やろ。うちがこの鏡を覗いていたら、突然ひび割れが入ったんですわ」

 柚季は兄の前では敬語になった。兄は「見せて戴いても?」と膝を摺って、神鏡を手にした。途中で、賑やかな母、戸隠竜胆とがくしりんどうがやって来た。紅葉がまたぺこりと頭を下げた。

「あらあら、うちのお嫁さんになるのに、そんなに固くならないで」母はやんわりと告げると、「慧介、それが神鏡?」とあいさつもなく、隣に座った。

「母さん、頭の蝋燭忘れてる」

「あらやだ」母はお祓いをしていたらしい。巫女服を引き寄せ、頭の蝋燭を外しにかかった。母は相当若い時にわたしを産んでいるので年の差を感じない。

 もうすぐ寿命だと笑っていたが、こういう人は、長生きするに違いない。

「母上殿。紗冥、何か感じるか?」

「ただの、銅板に視える」

「ただの銅板だと? 伊勢の神器をなんという……」

 伊勢宮が声に棘を出した。「すいません」とわたしは頭を下げたが、特段寒心は感じないし、いつもなら騒ぐ紅葉が大人しい。思ってみると、紅葉は自分を抱きしめる格好で、ブルブルと頭を振っていた。

「それ、仕舞って……寒くて、眠くなる」

「え? 紅葉、気分が悪い? 顔色が真っ青だよ?」

「……仕舞って……そんなの、遠くに、やって……」

 か細い声に、膝を立てた。兄が動じない声で告げる。

「紅葉さん、目の前にある神薙かんなぎに触れてごらん。直るかもしれない」

「いやっ……! 仕舞って! 見たくないっ!」

 部屋がガタガタと騒ぎ出し、柚季が「これ、紅葉ちゃんか!」と立ち上がり、ただ座っていた伊勢宮が顔を上げた。揺れは紅葉に呼応していた。

「触れるんだ、霧生紅葉! 戸隠を破壊する気はないのだろう?」

 伊勢宮だった。伊勢宮の声に驚いたのか、紅葉はひくっと咽喉を鳴らした。手に手を重ねて、神薙に導く。触れると、顔色がだんだん戻って来て、揺れも止まった。

 江ノ島の揺れに、とても似ている。

「伊勢宮、これは……」

「共鳴だな。霧生紅葉は産土うぶすなから、何かを引き出そうとした。間違いないよ。こっちだ」

「あらあら。紅葉ちゃん、落ち着いてね。この鏡はね、古くから女性の妊娠を誘発したものだという言い伝えがあるのよ。わるーい神魂かもすがおっきしちゃったかな、震えを止めましょうね」

「わたし、なんなんですか。鏡が怖くて寒くなって、頭の中に色々な物事が渦を巻くんです」

 紅葉は震える声で、呟いて顔を上げた。どうしていいか分からない前で、母は紅葉の両手に両手を重ねた。

「ちょっと前から、こうなんです。時折、寒くなるの」

 母はぽんぽん、と紅葉を抱いて、肩を撫でた。

「大丈夫よ。神社はね、そういう時のためにあるの。慧介だって、紗冥だって守ってくれるわ。貴女が鬼無里に生まれたのも、紅葉の名前も、偶然ではないのよ。伊勢の斎宮さん、引き続き監視を。そして、この鬼無里・戸隠からは天命は絶対に起こさせませんと上に伝えて。紅葉ちゃん、頑張れるわね?」

「頑張る……? 寒いよぅ……」

 母は兄を伺うと、また紅葉に向き直った。

「これから貴女はすごーく頑張らなくてはいけないわ。きっと、大変な戦いになる。わたしたちも、出来ることはするから。貴方は強い子よ。昔から、強い、わたしの好きな人の子だわ。貴女のお母さんも、強いのよ、本当はとても私なんかよりも……」

「わたし、嫌われてます……お母さんには」

「子を? お腹を痛めて産んだ子を嫌いな母親なんていないのよ。大丈夫よ。信じなさい」

 はらはらと紅葉は涙を零した。どうして泣いているのか分からないらしく、わたしに助けを求めて来た。

「貴女は悪しき鬼女きじょの神魂を持って、産まれる運命で。天命を呼び起こす存在」

 紅葉の目に、涙が零れた。「母さん!」とむっとして足を立てたところで、「妹、静かに」と兄貴さまに窘められて、また姿勢を正した。

「慧介殿が正しいぞ。紗冥、きみはいつまでも落ち着かないな。魂は争えない」

「落ち着けるか! 落ち着くほうが変でしょう!」

 どこの少女が「天命を呼び起こす存在」なんて言われて、耐えられるというのだろう。

「紅葉、わたしが守ってあげるから」紅葉は泣き顔を晒して、ふるふると頭を振った。

「紗冥ちゃんは……いつも、裏切る……」

 想像もしない言葉に、ぐらりとなった。いつ、わたしが紅葉を裏切った! 声にならない前で、伊勢宮と兄は秘匿会話を声を潜めて始めている。

「やはり、りぼんのほうの魂鎮たましずめか?」兄は頷いて、「そのための婚約だ」と目を伏せた。紅葉は「慧介さぁん」と視線を変えた。

 ああそう。兄貴さまなら、護ってくれると思うわけか。どうせわたしは落ち着きがない伊勢の斎王に叱られる身分だ。

「はっきりしたわね。魂鎮めは霧生紅葉。早急に、祭祀の執り行いを。伊勢の斎王さんと二人掛かりなら、悪しき魂も、黄泉にお帰り願えるでしょう」

 母は戸隠神社の巫女らしく、きっぱりと告げた。父はやって来なかった。

「あたしも何か」立ち上がったところで、「きみはここで、終わるまで正座だ。見張りを置く。昔からなんと落ち着きのない神魂だ」と厭味と夜鷹を置いて行かれた。

「紗冥ちゃん、ごめんね……」

「裏切りなんてしないけど……兄貴さまに任せるよ。そのほうがいいんでしょう」

「違う、わたしは」紅葉は泣きそうな一声を発し、母は紅葉を連れて去り、兄と伊勢の斎宮が残った。しかし二人もすぐに奥社を出て行ってしまい、わたしは広い和室にぽつんと残された。

 恐怖はすぐに襲ってきた。自分だけが何も知らされない違和感に、紅葉の叫び声が聞こえるのではという妄想が呼び起こす疑念だ。

 魂鎮めとはなんなのか。動こうとすると、夜鷹も動くので、諦めて目を閉じてみた。

 ――伊邪那岐いざなぎ伊邪那美いざなみの話、知ってるよね? 

 伊勢宮稜の言葉から、習った古記こきを思い出していく作業に逃げた。

『古事記』及び、『日本書記』なる書物の幻想譚の内容は以下である。

 神様が、二人の神様の子供を地に降ろし、国を作るように命令をした。(この場合の神様の存在は抽象的なので、在るとするらしい)。二人は大地を作り、せっせと家を建て、様々な環境を作った。そうしていよいよ子供を作る所業に勤しんだが、どうにも、肉かいの蛭子(ひるこ)しか生まれない。伊邪那美はあの手この手で抱いて貰おうと、頑張った。しかし、蛭子ばかりが生まれる。これでは神を増やせない。蛭子に囲まれ、悩む二人の前に、神が降りて来て、まず、伊邪那美を叱った。

「おまえから声を掛けていざなうからだ。男が声をかけるまで待っているんだ。自分から肌を見せてはいけない。男を惑わしてはならぬ」


(あ、ここ、紅葉っぽい)くす、と笑いを洩らして涙がこぼれた。思い出してゆく作業を続ける。この時のわたしには、わたし自身の内側しか助けがなかった。

(神様に叱られて、伊邪那美は今度は焦らすことを憶え、伊邪那岐からの言葉を待つ。いよいよ声を掛けられて、嬉しさでより色事に勤しみ子を産んだが、やっぱり蛭子神だったんだ)

――また二人は神様に相談に行った。

「すぐに頷くんじゃない。女神から、子つくりに積極的になどなるな。伊邪那岐が上でなければ子は生まれない」

またもや叱られた伊邪那美は、今度は恥じらいと粛粛さを憶え、静かに伊邪那岐を待ち続けた。今までとは逆の愛し方をして、覆いかぶさる伊邪那岐を下からしっかりと抱き留めた。こうして、ようやく二人は子供神を産むコツを憶え、様々な自然を司るものを産み落としていく。

愛すれば愛するだけ、倭国の原始神が生まれる。ここに、倭の国の産土うぶすなへの愛が込められている。次々と子を産み落としたある日、伊邪那美はヒノミカヅチと呼ばれる火の神を産み落とし、その焔の激しさで下半身を火傷で溶かしてしまった。そうして産んだ子供を抱くこともなく、火傷で瀕死になり、伊邪那岐は妻を奪った我が子を恨み――。

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