4:狐憑きの巫女は憑いてるけど憑いていない
目の前には二人分の戸隠蕎麦が運ばれて来たところである。ここの蕎麦は「二人前」というと、大きな皿に、簀の子を置いて、ほぐし水と安曇野山葵を添える。二人で食べるには一番いい量だ。そしてあっさりしている麺つゆがとても美味しく、ワサビを縫って食すとふんわりとした山葵の香りがたまらない。
「すまんな、店で突然騒いでしもて、ソフトクリームな。弁償するわ」
「戸隠に来たなら蕎麦を食べて欲しいんです。柚季さん、可愛かった耳が消えてます」
「ああ、母親が子ぎつねに逢いに行くとな。憑きが外れるんや。全く、読めんわ」
柚季は元通りの簪頭を撫でると、息を吐いた。
「うちの神社、伊勢の125社内の稲荷神社なんや」
「125社?! うち、7社で大変なんですが!」
「大昔、神宮に吸収されたんよ。まあ、特区割でな。105程の神社が合併や。大騒ぎやった。神様の御引越しやで。若宮行脚やな。そしたら、うちの狐神様、どうやら伊勢の空気が気に入らなかったらしく、暴れ出したんや。伊勢の神主のお歴々に迷惑かけよって、もうこれは、調伏せな、と思ったら、出て来たん親子稲荷でな。
……うち、祓いきれんかった。母親稲荷に
「笑えない」紅葉はぽそっと告げて、また質問を繰り返した。
「ご神体の神魂ってなんですか。かもすって初めて聞いたので、ちょ、それ、わたしの!」
「聞いたことはあるけど……紅葉、箸離してくれない?」
二人で蕎麦を取り合いながら、話に注視したが、柚季は蕎麦に興味津々らしい。
戸隠そばは有名で、歴史も長い。この国が倭国と呼ばれる以前から、ずっと続く神の味だ。
そば粉の上質さが違う。元々は神の供物だったというもうなずける。香りや、食感、それに蕎麦のしっかりした味はまるで違う。
柚季は適度に露出させた巫女服を崩しており、前髪を揃えた格好。相当の神通力は隠せてはいない。「やっぱ、うどんのほうが好みや」ぼそっと言いつつも、蕎麦に箸を伸ばし、無心になって啜っていた。
「旨いやんか! 伊勢宮、食べて行けば良かったのに」
「それは良かったです。柚季さん、戸隠神社はうちなんですが、うちに何か?」
わたしに柚季の目が向いた。鋭い眼光に一瞬息を止める。陽気な狐の姉ちゃんには程遠い目線に晒されて、また息を呑んだ瞬間、柚季はにぱっと笑った。
どうにもつかみにくい性格だ。
「うちのご神体の、伊邪那美ちゃん、どっちやろ? あんたか?」
箸を咥えたまま、紅葉が目を瞠る。
「伊邪那美って、授業でやった、古書のオノコロ神話のあれ?」
高等ともなれば、倭国の歴史は妄想であれ、書物で在れ、全て修めている。伊邪那美とは、伊邪那美命という、遥か遠くの土地のオノコロ神話の女神の代名詞だ。
「そや。ここだけの話だけどな、あの、
「教えて欲しいんですが」しかし柚季は俯いてしまった。ぴこん、と耳が立った。
「あかん、また、憑いた。そうや、戸隠行きたいんやった。二人とも、案内してくれへん? 白状なツレがとっとと向かったはずやんな。大きな鳥の式神連れてるから目立つはずやけど、うち、土地勘なくて、探せへんのよ」
もそっと尻尾を動かしながら、柚季は「蕎麦も悪かない。しかし、狐にはアブラゲやで」と爺に念を入れて、立ち上がった。わたしたちは引っかかった蕎麦の取り合いになり、紅葉が勝ち取った。
――狐憑きの西海の巫女、柚季稲荷は最初からこんな感じだった。
戸隠神社の閉門は早く、随神門があやうく閉まるところだった。残念ながら、氏子ではない紅葉は進んではいけない。夜の神社に他人は置かないが神社の鉄則である。
紅葉が兄と婚約をするなら、「
「じゃあ、また明日だね……ばいばい」
夕暮れも終わり、夜のとばり。
揺れるリボンが見えなくなるを寂しく感じていると、隣から「好きなん? 紅葉が。なんで追い返すん? 変やね」と野次が飛んできた。
見れば階段の踊り場に座った柚季が、にやにやとわたしを覗っていた。
「女のコ同士だし、……変じゃない?」
「変とは思わんけどな」短く会話をすると、狐憑きの耳を紅葉の消えた方角に向けた。
「うちは、そんなん拘るほうが、変やと思うねん。愛し合って出来た事実や。なにをそんなに怯えておるのやら。好きなら好きなだけ、一緒に生きたらええんちゃうか。天命が
好きなだけ、紅葉と生きる。そんな夢物語が叶うなら、わたしは死んでも構わない。でも、確かに、柚季の云う通りだ。この世界はいつだって
(どこかで紅葉を怖れていると、気づいたのは、この頃だったかも知れない。寿命は精々、40年生きられれば良いほうだ。大昔と違い、「天命」説ではそう囁かれていた)
柚季の言葉に頷いて、紅葉を追いかけた。紅葉はちょうど大鳥居で涙を浮かべて戸隠神社を見上げていた。
「紅葉、今夜は上がっていいよ。兄貴さまも許してくれるだろうし」
紅葉はぴたりと足を止めて、ゆっくりとつま先をわたしに向けた。杉並木の香りが漂ってくる。「おいで」と手を伸ばすと、紅葉もまた、おず、と手を伸ばし――。
ふわっと腕に飛び込んで来た。少し背の低い頭が腕で嬉しそうに揺れると、わたしはどうしていいかわからず、紅葉の柔らかい髪を撫でたりして時間を誤魔化した。
ちょうど閉門と日落ちの真下で、紅葉はわたしの腕の中に落ち着いた。
「ありがとう、紗冥ちゃん」
「……どういたしまして。柚季さんがね、この世界は天命が蔓延るんだから、居られるだけ一緒にいればいい、と言ってくれて。寂しいよね」
「柚季さん、素敵! そうだよ、寂しかったよ! 一緒にいよう、ずっと……ん、約束の」
きらきらと見上げてくる、またしてもやってきた期待いっぱいの誘いの目からさっと視線を逸らし、「ともかく」と仕切り直した。体内には心臓が二つもあるのだろうか。奇妙な鼓動を感じながら、わたしはじゃれる子ぎつねを見守っている柚季の元に(案の定拗ねた)紅葉と戻った。
「紗冥ちゃんの意気地なし」
口付を拒まれた紅葉はあてつけのように、柚季にばかり声を掛けている。口付なんてどうすれば出来るというのだろう。
わたしは女のコだ。紅葉のアピールに応えてやれるはずがない。
紅葉のアピールは、まるでハリネズミに突かれ続ける心地にさせられるのだった。
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