3:伊勢の稲荷と神魂
大きく開けた都会と違った戸隠山の山麓の時間はゆっくりと流れて過ぎる。夕暮れは神の国では逢魔が時と云ふ。相応しい夕焼けが山の輪郭を崩す中、わたしと紅葉は昔からの蕎麦処に辿りついた。
「夕焼けって泣きたくなるほど綺麗よねえ」紅葉はうっとりとしながらも、ソフトクリームの前で足を止めた。そば粉を使った乳牛をベースにした冷菓は、わたしたちにとても人気で、そば粉煎餅は稀に遠くの特区からの旅行客で賑わう、戸隠神社の指定銘菓でもある。
「え? 一個?」紅葉は小さく頷くと、くるりとわたしのほうに向いた。
「一つでいいよね。一緒に食べない?」
よく幼少に座った毛氈のある外椅子に座ると、紅葉はソフトクリームを口元に寄せ始めた。艶めかしくソフトクリームを舐め始める。紅葉はどうして時折、こう誘うような真似をするのだろう。
絶句しているわたしの口元に冷えた感触。咄嗟で唇を一文字に引き締めたわたしに、紅葉は「観念したら?」と含み笑った。心臓が早鐘を打ったように、指先までもを震わせる。
「可愛い女のコの言葉の御礼なんだけどな」
「いいよ、そんなの」わたしは真っ赤になっていたのだろう。紅葉は持っていたソフトクリームで熱持ったわたしの頬をつつく遊びを思いついた。
「ちょ、もう! 頬がべたつくじゃない」
「頑固な紗冥ちゃんが悪いんだよ?」
瞑られた片目からの波動に、動揺と、理由の分からない高揚がわたしのなかを駆け巡った。紅葉はちろ、と小さな舌を出して、わたしの頬のクリームを掬い取ろうとする。触れるか触れないかのところで、止まった。
「……なに。さっさとやって、恥ずかしいの堪えてるの」
「紗冥ちゃんがどんな反応するかなーって。楽しんじゃった。改めて、していい?」
いいも何も。もう好きにしてくれ、と少し開いた足の合間に両手を載せてこっちから頬を突き出した。ここで何か、言葉をかけてあげたいのに。やっぱり、わたしは金魚の如く、口をぱくぱくさせるだけだった。
「……ん」意味深な声を紅葉が洩らし、触れる舌先に頬を緊張させて覚悟を決めた瞬間。
のそっとした何かが足元にやって来た気配を感じた。
「可愛い! お狐さまだわ!」
ソフトクリームがずっと動いたので、わたしは手で傾きを支えてやった。二匹の子ぎつねが手足を揃えて、わたしたちを挟むように座っていた。動物好き同士で、夢中になって、またソフトクリームが傾いた。狐は金色と、銀色。つぶらな目をしてこちらを見上げている。
「狐、だよね。小さいな。狐の
「別の世界のほうよね。透けてる」とは、巫女の目でしか見えない狐という意味である。
神社や神道特区には様々な彪隠しがやってくる。
「どうしたの? 迷子かなぁ~? ん?」
子ぎつねと同じ角度で揺れるリボンを見ながら、わたしは子ぎつねたちを眺め透かした。祓う必要はなさそうだった。大人しい子ぎつねだから、悪いものではないだろうし。
「どこから来たのだろう。きみたちのお母さんは?」
問うと狐たちはそろって蕎麦処に視線を向けた。
「中にいる人のお連れかな。なんでもかんでも置いて行かれると困るんだよね。この間も迷い式神の狸が現れてうちの龍社を荒らして兄貴さまが
「それ、うちもある。ヘビさんが大勢いらして、母さんが一掃したわ」
「紅葉のお母さん、あまり知らないけど」
「引き籠り巫女だから」
なぜかテンポを速めた会話の途中で、怒鳴り声が響き始めた。
「やってられんわ! 信じられへん! なんやて? もう一度、言うてみいや!」
びくっと震えあがった紅葉の手から、とうとう、ソフトクリームが落ちた。
「あたしのソフトクリーム、おーちーたー~~~~」
紅葉はがっくりと肩を落とし、靴底を鳴らして立ち上がった。
「怒鳴るからよ! 文句言って来てやる!」
「紅葉! アイスなら買ってあげるから問題起こさないで!」
「違うもん、紗冥ちゃんの頬触ったし、むふふ、いつ食べようって思ってた特別なソフトだもの! 許せないに決まってる! 頬ぺろりチャンスなんかそうそうないのに許さない!」
愕然とした紅葉の台詞に、唖然としたわたしの背後で、罵声はまだ続いて被さり始めた。
ドガシャーン! 盛大に何かをひっくり返す音に、紅葉の気がそぞろになった。
「ヒトの大切なアイス落としておいて。何なの……喧嘩?」
「蕎麦処の中で何かあったみたいだな。行こう」
二人で顔を見合わせているうちに、甘い雰囲気は吹き飛び、わたしはさっと頬のクリームを拭った。「やっぱり次は一個ずつ食べようよ」実を言うと、喉が渇いていたし、残暑のせいで、わたしは丸っとひとつ、食べたかったのだが。
「いや。分けっこしたいの。紗冥ちゃん、ほんっと分かってない」
「そもそも物理的におかしいでしょう? それなら、あたしが奢るって」
日常通りの言い合いの途中で、また蕎麦処で大声が響いた。
「なんっでけつねうどん、作らへんの!」
店主は割としゃかりきな爺さんだが、客の女の声が大きい上に、
近くには、
「アブラゲや。アブラゲなしってなめとんのかっ。もうええわ! わからんちんが!」
暖簾が大きく揺れて、中から現れたは、大きな耳にフサフサァの尻尾をつけた女性だった。女性は暖簾をくぐり、驚いているわたしたちに「堪忍な」と目くばせをして、堂々と歩いて来た。華奢だが、身長はわたしより少し高く、妖艶でいて、陽気な雰囲気を纏っていた。化粧が似合っていて、大人のようだが、どこか、浮世じみている。
そのうちの理由は、大きな耳と、尻尾だろう。どうやら狐の化身のような風体をしていた。「紗冥ちゃん付アイス返して」と紅葉がいち早く、呪符を指に挟んだところで、凛とした声。
「うち、人間やで。祓わんといて。狐
何か憤る度に、耳がひくひくと動く。尻尾はかなり大きい。気がつけば、子ぎつねたちが、足元に寄り添って、すりすりをしていた。
「狐憑き……え? 神道特区の巫女ですか?」
ぴこ、と耳を伏せて、狐巫女はしょぼんと肩を落とし、涙目で「聞いてくれるか?!」と勢いよく絡んで来た。
「狐が悪戯しよると聞いてな。祓いに行って、失態したんや。狐の呪にかかってもうた。ああ、名前言うてない? うちは伊勢の
狐憑きの女性、柚季は、黒髪を無造作に簪で留めており、半分は遊ばせて、着物から剥き出した肩の上に舞い散らせている。厳粛な戸隠の巫女と違い、どこか艶やかで、闊達だった。わたしは元気な柚季に一目惚れをし、すぐさま気づいた紅葉に手酷く足を踏まれた。
「紗冥ちゃんの悪い癖だよ! すぐにお姉さま巫女に見とれるの!」
「いや、可愛いなって……いて! 本気で足踏まないで!」
紅葉はふん、と顔を背けると、柚季に向いた。柚季は柚季で紅葉をじろじろと観察を始めている。「紗冥ちゃん……」見られるが苦手の紅葉は困惑して、わたしに助けを求めて来た。
柚季は狐のような目で、交互にわたしたちを眺め、告げた。
「うちのご神体の
神魂。わたしたちは初めて聞く言葉に、諍いを中断したのだった。
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