2:秋生まれの鬼女紅葉

「そこまで」声が掛かると、紅葉は着物の袖を下ろし、は、と膝を押えてかがみ込んだ。

 足には保護のために布を巻き、素足だ。いつも練習で擦りむけて赤く染まる。床張りに慣れている巫女でさえ、舞の練習はきつい。しかし、巫女の舞なのだから当然だと紅葉は笑う。

 数日後。鬼女紅葉祭きじょもみじまつりの準備で、特区は賑やかになりつつあった。

 わたしの活躍する流鏑馬やぶさめ祭は疾うに過ぎ、秋には鬼女紅葉祭が行われる。これはとても興味深い祭で、山車に紅葉を飾り、鬼女と言われた呉羽紅葉くれはもみじへの想いを踊りながら、戸隠・鬼無里を行脚する神道行事である。

 秋生まれの巫女が選ばれるのだが、紅葉はかれこれ十回目の抜擢ばってきだった。

 舞の練習を終えた紅葉が、額に汗を滲ませて、演技場所の入り口で待っていたわたしに走り寄って来た。稽古もだいぶ進んだらしく、巫女衣装に、当時の「鬼女」の面、それに巫女鈴を手にした紅葉は少しばかり大人にみえる。

 わたしは小脇に二人分の鞄を挟んで、舞に勤しむ紅葉を気が済むまで堪能していた。先日の江ノ島の「婚約」の言葉を考えていたのだが、紅葉の舞は、長き舞手が感嘆の吐息を洩らすほど、素晴らしい舞というだけあって、舞心がないわたしをも魅了した。

 悲しみの拍子も、恋い焦がれて扇子を広げて回るも、持って生まれた度胸も手伝って、魅せるものになっていく。気づけばわたしは世迷言など忘れて、紅葉の動きに目を奪われていたのだった。

 ちらりと見やると、窓には、男子の影。紅葉はとても人気がある。

(頑張ったわたしの巫女に、差し入れでもしてやるか)とポケットの小銭を指先でさぐる。神道特区の貨幣の流通は少なく、それらは殆どが保護のために費やされるが普通だ。

「ありがとうございました」ぺこりと頭を下げると、紅葉も窓に並んだ野菜に気が付いた。ぺこ、と頭を下げて、すっと顔を上げる。その横顔は氷菓の冷たさが漂うような、静かなる怒りを携えている。何かを拒絶しているのか、紅葉はそもそも異性に興味がないらしい。

「紅葉が見たいんだよ、みんな、もっとにこやかにしてもいいんじゃない?」

 紅葉は思い直したらしく、手を振った。男の子たちが去って行った。ありがとう、ではなく、ばいばい、の意味に取ったのだろう。誰もいなくなると、紅葉は嬉しそうにわたしの腕を引いた。

「ね? どうだった? 上達してた? 紗冥ちゃん、」

「紅葉が、鬼女紅葉さんを踊ってるな、と」

「え? それだけ?」

「綺麗だったよ。見惚れちゃった。これでいい?」

 紅葉は祭の舞手である学校の教師に頭を下げて、「ちょっと待ってて、絶対ね?」と更衣室らしいカーテンを引いた。舞踊は男子立ち入り禁止。女子だけに許された舞は、本来は巫女舞という。

「まだね、満足いってないの――」

 カーテンの中で、紅葉は不満そうな声を出した。ぷるん、と大ぶりになりつつある整った胸の影が見え、ごほ、とわたしは咳払いを織り込みながら、もこもこと紅葉の形に動くカーテンから目を逸らす。ばさっと着物がレールに掛けられたので、いよいよ背中を向けた。

 しゅる、と帯が落とされる音に、心臓が跳ね上がった。どうも、落ち着きがない。今では一緒に寝たり、お風呂に入った幼少が懐かしくて仕方がないし、不思議でもあった。

 どうして平然としてたんだ、わたしは……と。

「でも、上手だったけど?」

「んー」わさわさ、と肘がカーテンを変な風に揺らしている。どうやら、トレードマークのリボンのしっぽを作っているらしい。

「紅葉、また恋文地獄決定かな。紅葉に憧れている男子、多いよ。一見大人しいお嬢様巫女だし、想いを秘めたくなるんでしょ。でも、実際は」

 言葉に被るように、紅葉の指先がお目見えした。ジャッ……と勢いよくカーテンを開けると、紅葉は縛り上げた髪を揺らして、靴に足を突っ込んで、頬を膨らませた。

「……恋文なんか、要らないんだけど」

 紅葉の視線から逃げようとするが、紅葉は顔を曇らせて、影を帯びたまま、接近した。「実際は、なに」擦り寄られて、鞄が落ちた。肩に乗せられた指先が気になって、視線を向ける。

「……可愛い女の子だよ」

 紅葉はぎゅっとわたしの肩を掴んで、俯いた。しばらくその姿勢を続けていたが、やがて、へにゃっとしたいつもの笑顔に安堵が広がる。

「本当?」

「本当だよ」短いやり取りの合間に、紅葉はふにゃ、と小さく鳴いて、呟いたのだった。

「お腹すいた~。蕎麦ソフト、戸隠そば、んー、小豆最中も捨てがたいし」

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