7:ぬらじじいと抜けない剣

7:ぬらじじいと抜けない剣

「誰かって……ここ、海底だよね? 魚人でもいるというの?」

尤(もっと)もな紅葉の言葉に、わたしはごくりと咽喉を鳴らした。冷たいものが、喉奥を滑り降りる。濡れた背中が急激に冷えて来た。

「紅葉、後ろに下がって。あと、何か、武器になるものがないかな」

「戦うの? ちょっと待って」

「まだ半人前で、母のようには行かないし、式神ももらえない見習いだけど、呪符は使える……濡れちゃったから呪文しかないか」

 余談だが、戸隠には稀に熊や陰世の鬼の存在が出る。神通力で両親が追い払うのだが、長い棒のようなものを使い、高速で祝詞を上乗せする裏技があった。

「さっきの祭壇に刀あった! 借りに行って来る」

怖いもの知らずの巫女見習いはきょろきょろと辺りを見回し、一瞬洞窟の奥に消えたが、見事に刀を掴んで戻って来た。

「祭壇にはお借りしますって頭下げたから」

時折、紅葉の洞察力も度胸も、巫女ゆえのなんたるかではないかと思う。

直感の類で、必要なものに気を向ける。

幼少の話だが、わたしたちは鷲を追いかけて神社で騒ぎを起こしていた。

 しかも、相手は人喰い鷲。紅葉がわたしが御守りを無くした事実に気づかなかったら、そのまま鷲と接近して、頭を突かれたかも知れなかった。虎視眈々と獲物を狙い、瞬足でやってくる鋭い嘴の前では、柔らかい子供の頭などひとたまりもないだろう。

『あれ? 紗冥ちゃん、御守り、落とした?』この一言で頭を下げたために、急滑空してきた鷲とぶつからずに済んだ。結果的に紅葉は何度もわたしを救っている。

天命から人の支配を逃れた生物たちは復興の兆しを見せ、自然に負けた人間社会は一部変革を余儀なくされた。土に還るが基本の日本古来の産土神の信仰が甦ったが大きい。人は自然に還り、還れないものは、遠く追放の憂き目にあった……定かではないけれど。

 こんな海底にいるものと言えば、巨大海鼠なまこかはたまた海の落ち武者の亡霊か。

「べたべたする~。早く、受け取って」

 藻で滑る。仕方なくシャツを脱いで、棒を包むと幾分持ちやすくなった。しかし、わたしの手は剣を抜く行為を拒んだ。というよりも、剣はぴくりとも動かない。仕方なく振り回すと藻が散ったが、丸腰よりはいい。みねうちくらいは役に立つだろう。

「ねえ、それで戦うの? 紗冥ちゃん、ほんっとお構いなし。紅葉、下がってていい? 藻が飛んで来るんだもん」

「そうしてて。こんな海底にいるモノなんて、どうせ普通の相手じゃないから! 剣が抜けない……っ」

「紗冥ちゃん、前!」

 紅葉の声に視線を向けた。気配はゆっくりと近づいて来て、ぼんわりと周りが明るくなった。わたしは火の祝詞を唱え、棒を振りかざしたところで、紅葉が叫んだ。

「やだ、ぬらりひょん?!」

ぬらりひょんとは、家の留守を見計らい、勝手にのんびり寛ぐ大層迷惑な妖怪の主である。しかし、近年では、単なる徘徊したジジイだった説が強いために妖怪の王座からは外されている。わたしは気が抜けて棒を下ろした。ぬらりひょんと告げた紅葉の形容詞はぴったりの、目の前には小柄で、いかにも海鼠っぽい顔をした生物が二足歩行でやって来ていた。

その仕草と、ゆったりした動きは、まさにぬらりひょんに近い。

「なんだよ……はぐれたのかな」

行くところがなく、海底で寛いでいたらそれはそれで見逃すつもりではあったが、ぬらりひょんはひょい、とランタンを紅葉に翳した。わたしは刀を握り直した。

「ちょっと、何? ひゃあ、眩しいんだけど、紗冥ちゃん、なんか、こっち来る~」

「紅葉、背中に隠れていいよ。く、抜けな、い……っ!」

 鯰のようなヒゲがぴくんと動いた。両生類が苦手な紅葉は委縮してしまった。

「ほうほう、こぉれはこぉれは……」

ぬらりひょんは鯰に似た目をニヤァと細めて、紅葉に擦り寄っている。

「おい、じいさん、紅葉をじろじろ見ないでくれる?」

「いかにもぉ、わしはぁ、ジジイじゃがぁ! ほうほう、そっくりぃじゃのう……」

泣きそうになってわたしの背中に逃げ込む紅葉が小さく「祓っちゃうからね」と巫女なりの反抗をしている。確かに紅葉なら祓えるだろう。よく食い、走るが、鬼無里地区の鬼無里神社の末裔の火の神社「鬼無里神社」の直系巫女だ。「うー」と八重歯を小さく剥く紅葉を宥めつつ、わたしはぬらりひょんに向き合った。どうにも小さいので、少し腰をかがめて、対話の姿勢になった。

「そっくり? ねえ、ぬらりひょん、紅葉の何がそっくり……そうじゃない。あっちから来たけど、地上に出られるんですか」

 ぬらりひょんは、のわー。とあくびをした。

「わたしたち、海底で迷っているんです。渦に飲み込まれてこんな場所まで来てしまって」

 なまずのヒゲがぴくんと動いた。ぬらりひょんは小柄な身体を揺すって、今度はわたしの検分を始めた。

「ほうほう」またニヤァとして、抜けず諦めた剣に視線を止めた。後で、「ふむ?」とまた躰を揺すって見せた。

「神祇の祭壇の前にはぁイワサカがあったはずじゃが……なぜ、ここにたどり着きおったぁ?」

「壊れて、隙間に吸い込まれたんです」紅葉が気丈にも、涙目のまま後方を指した。

「あの光がみえるでしょ? わたしたち、それでここに流されてしまったの」

「壊れたじゃと? 己ら、あの屈強な磐境を壊したのかいな! どんな怪力じゃ!」

「人聞き悪い。水圧で勝手に割れたんだ。そうだ、やっぱりあれは磐境の祭壇なの? ということは、ここは神域? 龍穴があったよね。ここはどこなんだ? 爺さん地上から? 繋がっているの? あの祭壇何? なんでこの剣、抜けないんだよ」

「紗冥ちゃん、紗冥ちゃん」

突かれてみると、ぬらりひょんはわたしの質問の多さに目を回して、転がっていた。

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