6:窟屋の地底湖で
額に水滴が落ちる感覚に、目を開けると、そこは空洞だった。
振り返れば、地底湖のような縁が見え、そこに紅葉がしがみ付いて倒れていた。下半身は海にあるが、上半身を岩壁のでっぱりに引っ掛けて這い上がるような体制を取っている。
「紅葉! わたしも、生きてる?! 信じられない……!」
水面は入り込んだ光で明るい。わたしは倒れている紅葉を揺り起こし、紅葉はすぐ瞼を上げた。ぶる、と身体を震わせたので、自分のシャツを絞って肩にかけてやる。
「……ごめん、お気に入りのカーディガンは脱がせたから」
「ううん、また、助けてくれたんだね。なんなの、もう!」
びしょぬれの紅葉は服を絞って、髪をかき上げた。「水、飲んだ」とけほりと咳き込む紅葉の淡い肌が透けて見えている。ごほ、となりながら、わたしは再びシャツを無言で差し出した。
「着ていいよ。落ち着くまで、おいで。怖かったよね」
紅葉はぶるぶる震えながらも、わたしにぴったりとくっついて、首に腕を巻き付けた。二人の鼓動が少しずれて、膨らんだ胸を微動にさせる。
「生きてて、良かった……! 紅葉、渦に吸い込まれたの」
紅葉は頷くと、「紗冥ちゃんとなら」といつもの可愛い八重歯の笑みを見せて来た。指を絡め合っているうちに、鼓動も正常に戻っていき。落ち着くと、早速周辺を見回ることになった。
「地底湖かな? ねえ、岩壁が、窟屋に似ていない?」
わたしも一緒に見上げると、水面は頭上にあって、どうやらここは海底洞窟、らしかった。
指先に走る逃げ水が、岩壁に吸い込まれていく。ちょろ、と蜥蜴が目の前を過ぎった。
「時代に、いくつも沈んだ土地のうちのひとつかしら。ね、奥に行けるみたい」
ひょこ、と濡れたままの頭を動かして、紅葉はぱっくり開いた洞窟を覗き込んでいる。
「紅葉、むやみに歩き回らないで」
「でも、前に行くしかなさそうだけど? 岩壁があったから、水が流入しなかったのかな」大きな岩壁は門だったのか。注連縄だった気がするが、暗がりでよくは見えなかった。
「祭壇……?」
紅葉が足を止めた。転がって腐食しかけた台が三つ均等に並んでいる。朽ちた台座は、神棚に似ているが、今にも崩れそうな濡縁の風体の古風なものだった。台座に置かれた三つの銅板は「
「本当だね。祭壇にも見えるけど……三つの台があるね」
「なんだろう、この小さい石、可愛い」
「紅葉、触るなってば」紅葉は何かに誘われた如くにふらりと指先を伸ばし、触れて背中を髪を逆立てた。よく先生に怒られた時に紅葉は「ひっ」と背中を引きつらせる。
「宝石みたい。みて、魂のかたちをしているわ。外に出てみたら、綺麗かも」
石は緑青で、一瞬
「痛い。指先に、何か走った。何かに刺されたのかな」
「ほら、言わんこっちゃない。蛭でもついてたのかな……こっちは刀か。ふうん、値打ちものかな。高級そう」
「紗冥ちゃんだって掴みたそうだし、蛭がいるかもよ?」
祭壇は二段で、それぞれ朽ちていて崩れそうに古い。
感じた覚えのない、不思議な、理屈の思いつかない空気だ。封じられ続けた窟屋。遡ると数千年も封印されたと聞く。海底に、ある祭壇……しかし、残り一つの台座は空っぽだった。
「窟屋はまだまだ沈んでるって言ってたね。ここがそうなのかな。ともかく、戻れる道を探さないと」
紅葉はまた俯いた。
「紅葉? 帰り道を」
「戻りたくない。ここでなら、二人でいられるんだから」
正気かと疑う前で、紅葉は先ほど拾った翡翠石をしっかりと手のひらに収めていた。
「なんで、婚約しなきゃならないのよ……紗冥ちゃん、言ったよね。結婚しようって。あれは嘘だったの?」
「なんでそんな話をこんな時に」
「そんな? 時折酷いよね。こんな時だからに決まってるよ!」
ムカムカ、と空気が揺れて、紅葉は我慢の限界だ、というように首を振った。空気が揺れて、前方から流れて来る。誰かが歩いて来た。しかし、紅葉は気づかない様子で、まくしたてる口調になった。海底だろうが、死にかけだろうかお構いなし。結局洞窟の祭壇を離れながら、わたしたちは口論になった。
「そうやってわたしを騙したんだ?」
「なんでそう、悪い男みたいに言うの。わたしはれっきとした女のコだって言ってる!」
「知ってるよ。だから、わたし、考えて納得したの。ずーっと紗冥ちゃんといられる方法! なのに、紗冥ちゃんは気づきもしないんだからね!」
「あんたって時折頑固! 好きだって言えばいいわけ? 言ってどうするの!」
「わたしが満足するもん! だいたい、紗冥ちゃんは、他の女のコに目移りすぎ! 浮気者っ! 知ってるよ! お姉さん系が大好きで、わたしはうるさいんだよね」
「こっのぉ……」大人しくさせようと、後ろから抱きしめると、紅葉はぴたりと騒ぐをやめた。
「んふふ、あったかい。ね、今日こそちゅーして」
尖らせた紅葉の口元を片手で塞いだ。
むっと上がった眉に構わず、わたしは気を研ぎ澄ませた。
やはり、何かの気配。ゆっくりゆっくり、何かがこちらに向かって進んでいるのだ。
「誰か、来てるんだ。静かにして」
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