5:海底の磐境《いわさか》
江ノ島海の流れは緩やかだったはずだった。しかし、荒れ狂った波が白い波頭を剥き、まるで籠のように丸く渦を描き始め、飲み込もうとぱっくりと口を開けた。
大きな波と水圧が押し寄せた時、わたしは紅葉の手を離してしまった。
「紅葉、紅葉!」紅葉だけが渦に飲まれ、わたしは空中に押し出され、ぷかりと浮く。渦が目の前で豪風を響かせていた。
「嘘でしょう……っ? 紅葉を返して――っ!」
紅葉を飲み込んだ渦はどんどん直径を狭めていた。青と白を混ぜ込んだ海は内側へと引きずり込んでいく。何かの神通力が働いているような、これは何かの呪いなのか。
わたしは迷わず飛び込んだ。紅葉無くして、死ぬ気はしなかったから。
***
紅葉は渦を抜けたところで、懸命にもがいていた。捕まえたが、水面に上がるには、あの渦の水圧を抜けなければならない。「もみじ」と小さな唇に酸素を贈ると、紅葉はうっすらと目を開けたが、またくてりと気を失った。ずしりとした腕の重さに、腕が伸び切って引き千切られそうになる。
絶体絶命だ。気絶した紅葉を抱きかかえ、このまま――……
ふと兄である戸隠慧介が浮かぶ。兄でありながら、以前怒らせた時の迫力で「兄貴……さま?」とつけてより、兄貴さまと呼んでいる。揺れる水面の中で、わたしは兄に嫉妬していた。
「ごめん、男だったら、もっと貴女を守れただろうに」
海流が押し寄せた。紅葉のカーディガンが水圧を受けるので、脱がせて足で海底に蹴り落とす。腕が楽になった。海流は二人を押し上げ、誘うように海底へ吹き込んでいる。西からの海流だった。ずっと続いているようにも見えたが、わたしたちはこの海流に乗れて、助かったともいえる。さすがに息がもたないと思ったところで、聳え立つような岩壁が現れた。岩壁に海流がぶつかり、水圧を消し合っては激しい潮汐に晒されていた。
「……注連縄だ……」
巨大な岩壁に、ボロボロになった注連縄が巻き付いていた。指で触れれば紙垂は霧散するだろう心無さでみっともなく千切れて揺れている。岩壁がぼろりと崩れた。瞬間、上部に身体が吸い込まれた。急激に開いた穴に引き込まれるように二人は流され、わたしは目を瞑って思い出した。
神道には「
神を宿した樹々と石のことだが、何故、海底にあるかは定かではない。しかし、目の前の岩壁は磐境に違いなかった。
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