4:江ノ島特区の神々――イザナイへ――

「よし、次は――っと……」

 江ノ島特区の土産裳屋はにぎやかだ。わたしたちは石畳の道を降りて、目的の窟屋に向かう判断をする。

「紅葉、今日は腕組んで来ないんだな、変な感じ」

 紅葉はまた俯いて、何か言いたげにした。つま先を手すり代わりの木の杭に擦って、さも気にしていない口調で続ける。

「あたしたちは女のコだから、いつまでも、一緒にはいられないよ」

 告げてまた俯いた。小さく肩が震えているので、やれやれと、自ら腕を伸ばして、小さくて丸い肩をそっと押える。頬から不死鳥が飛び立った。展開は見えている。わたしは、紅葉の泣き顔を見たくないといいつつ、それに弱い。そんな自分を恥じて、誇らしく思うのだろう。

「無理しないでいいから、ほら、手!」

「紗冥、ちゃん……っ……」

 紅葉は涙を浮かべてふるふると頭を振って、手を飛び越えて、わたしの腕に飛び込んで来た。こうでなければ落ち着かない。

「ばかだね、なに無理してんのよ」

「卒業しなきゃって……。わたし、婚約するの」

「婚約? 誰と?」

「……言いにくいから、お詣り終わるまで待ってね。気持ち、整えるから」

 紅葉は本当に言いにくそうだったので、話題を変えた。婚約、と聞かされたところで、どうしろというのだろう。考えてもみなかった。

 江ノ島特区の神々は、敢えて騒がずに見ている様子だった。

 ***

「急に拓けた~」

 階段を降りていくと、目下を塞いでいた岩壁もなくなって、目の前には水面がアルミのように揺れ、輝く海が広がるばかりだった。奥に江ノ島特区の窟屋が見える。注連縄が張られているほうが、第二窟屋と呼ばれ、かれこれ数世紀前から人が入れる状態ではないらしく、封鎖の札が掛かっていた。代わりに第一の窟屋はようやく修復を完了し、少しずつ人々を集めている。 

「さ、見ておかなきゃっ」

 よいしょ、と紅葉は四肢を潜らせて、先に進んで行ってしまった。相変わらずの行動力に微笑ましくなっている場合ではない。どうして楽な道を行かないのだろう。係員がいないも気にかかった。

「紅葉! 服汚れるってば!」

「平気~、紗冥ちゃん、すごいよ、はやくはやく」

 洞窟の奥から声が響いて、わたしも同じように潜り込んだ。自由閲覧、勝手にしろにも程がある。

 やがて通路は広くなって、わたしたちは足を下ろすことが出来た。

 ゴツゴツした岩壁に、張り巡らされたわずかなライト。まるで、黄泉だ。それに少し気温が低いのは、この冷えた岩壁だろう。近くの海水を吸っているのか、指先で触るとひんやりとした霊気が立ち上っている。どことなく神社の清廉な空気に近いものを感じ取った。

「神社じゃないよね」

「ここ、龍神様がいたんだって本当かしら。紗冥ちゃん、見て」

 紅葉が示した指先には大きな穴が二つ。頑丈にロープを貼られ、やっぱり注連縄が下がっている。

「神道の護りがあるね、鬼がいるのかしら」

 注連縄は神の領域を示すものである。そこからは立ち入らないように、と神と人、または鬼矢来おにやらい追儺ついなの名目で使われる。通常の注連縄は神域の他、鬼矢来の名目で使われることが多い。古代では、本物の神を封じ込めていたしめ縄も、今は役目を変え、神道の護りに使われている。八丁標や境界樹も同じにして。幟も役目を一新していた。鳥居は未だに神社門とされているが。

 強固な縄に、紙垂しでを四つの四垂よたれに藁が三筋、五、七の呈で下がっている。より神域である印だ。足を止めた。

「穴が開いてるわ」

 地面を割り込んだように、深く突き抜けた穴を隔離しているらしかった。他の観光客は出土品に群がっており、こんな穴と神域に足を止めるのは、鬼無里育ちのわたしたちだけだ。

「本当だ。随分丁寧に張ってあるから何かと思えば、穴だね」

「ん……これって龍穴かな? なんで二つもあるのかしら」

「親子の龍が逃げたとか?」

「うふふ。なんで逃げたのよ?」

 紅葉はきゃはっと笑うと、はっとまた別の何かに身を震わせて視点を止めた。括られた七五三縄の向こうには小さな弁天の像。にたりとした顔を向けている。

「弁天様がいるわ……ねえ、この縄潜って良いかなぁ」

「紅葉。注連縄以上に貼ってある場所に踏み込んだらどうなるか。習ったよね。幼稚園で」

 残念そうな目をした紅葉を促しながら、窟屋を引き返した。

 外はもう夕方の準備の空で、わたしたちを今度は終わりの太陽が逆に照らし始めた。

「ねえ」窟屋を出て、少しばかり歩いた海沿いの岩壁で、わたしは足を止めた。紅葉は強くなってきた海風から守ろうと、長い解れた髪を押えて斜陽の中、立っていた。

 海軟風が吹き抜ける中、わたしの髪も、攫われそうになった。

「婚約した相手、誰」

 紅葉の目がくふっと三日月になった。「興味あるんだ?」言葉に面白くない感情を隠して、わたしは海に目を向けた。

「聞きたいだけだよ。ずっと一緒にいたんだし。気になるじゃん。紅葉――……」

 言いたい言葉をぐっと飲み込む。目を閉じれば小さいころからの紅葉が溢れて止まらないのに、わたしには届かない。こんなに好きなのに、届かない。

 ――なんで、わたしは狩られちゃうの……? 

 告げて泣いて山に飛び込んだ紅葉を追って、見事に遭難した時だって、紅葉を護れると思えば怖くなかった。

 小さな小指と小指を繋いだ瞬間、夜空の星たちだって見ていたはずでしょう?

「一緒に、ずっと一緒にいようね。そうだ、結婚しようよ、わたしたち」

 額と額をこすり合わせた誓いは、決して飯事ままごとではなかったのだから。

『可愛い紅葉、大好きだ。多分、理屈ではなくて、わたしは貴女でないとダメなの』

 言わずに、わたしは顔を上げた。

「大切な心友なんだから。気になるって」

 紅葉は一瞬顔を強張らせたが、またぷいと横を向いた。

「言いたくない。言いにくいし」

「きっかけ作ったの、そっちだよ。怒るよ」

「だから、言いたくなかったのよ。紗冥ちゃんに黙ってたけど、わたし生まれた時から、15過ぎたら婚約決まってるんだって聞いてたの。紗冥ちゃん、言うと絶対怒るもん」

 図星を刺されて、腹がちり、と音を立てた。同時に、胎内で何かがずく、と蠢いた感覚に、わたしは顔を顰めた。月経とは違う、何かが昂る感覚は、あの時以来だ。

『ね、おむね、みせっこしない……? 紗冥ちゃんに、紅葉のおむね、見て欲しいな』

 思い出すと、急降下させられるような激しい迸りが再び胎内を駆け巡る。

「紗冥ちゃん? どうし……」

 わたしは情けなさで低く唸った。紅葉を強く抱きしめた。

「ごめん、止められない」目の前が赤くなる――。

 紅葉のような柔らかさはわたしにはなく、どこか、精神も筋っぽい。女のコで巫女でも、何かが違う。

(今思えば、単なる巫女の発情期と片付けられるが、この時のわたしは襲来した衝撃に耐えるが必死で、その鬱屈が、江ノ島の海を揺らした……のだと思っている)

 大地が地鳴りを上げた。わたしたちは抱擁をより強くした。足元の揺れは思い出す度に足裏から伝わるであろう、重く、強いモノだった。

 ず、ず、ず、……。何かが蠢いている感覚と近い。揺れは一層強くなり、空の雲をも揺らした。

「世界、ゆ、揺れてる……っ?」

 紅葉が小さく畏まって、わたしの腕にしがみ付いた。その時、紅葉の足元が大きく崩れた。

 リボンが宙を舞った。

 江ノ島だけが揺れているのか、海がうねりを上げているのか、巫女が二人で神通力を発動させたのか。紅葉も生まれた時に「狐の嫁入り」を起こした巫女である。その時から、微かではあるが、大地はまた揺れるようになったのだと。

 まるで、わたしと紅葉を怖れるように、揺れるのだが、この時の揺れは大きかった。

「紅葉、捕まって! 逃げよう!」

「紗冥ちゃんっ……!」

 紅葉の足元の瓦礫が音を立て、海に落ちた。

「きゃあああああああ」

「紅葉!」

 堕ちる寸前、紅葉はわたしに腕を伸ばして、引き寄せるような動作をした。まるで誘うかのように唇が触れた時、紅葉は妖艶に微笑んで見せた。

 

『イザナイへ――』

 水面が目前に迫って来て、わたしは紅葉を抱きかかえて、江ノ島の海に落ち――。

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