第25話


         ※


 一学期の中間テストも迫った、五月中旬。

 俺も合唱部に入ったお陰で、随分他人とコンタクトをとれるようになってきた。


 一つには、クラスの人気者である涼介の添え物だから、というのが理由ではある。しかし俺は添え物でも何でも大歓迎だ。コミュ障を少しでも軽減できていたとすれば、それは立派な心理的成長と呼べるだろうから。


「茂樹、君たちの定演、必ず聞きに行くから!」

「何度目だよ、それ言うの。それより今は中間テスト対策だろ? お互い頑張ろう、涼介」


 ビシッ! と親指を立てて見せる涼介。決まってるなあ。


 部活の方も、だんだんとハードになってきた。

 初めから猛練習だなと思ってはいたが、谷ヶ崎先生の指導は丁寧でありながらきめ細かく、気の抜けないものだった。


「それじゃあ、この曲は一人一パート担当ということになります。女声陣のカルテットと、それを支える茂樹くんの男声、っていう構成ね。なかなか難しいけど、去年と比べてクオリティを落とすつもりは、少なくとも先生にはありません。六人で頑張っていきましょう!」


 俺たちは声を合わせて、はい! と威勢よく答えた。……と、思っていたのだが、一人だけそうでもない人物がいることに、俺はまだ気づいていなかった。


         ※


「ふう……」


 溜息をつきながら、俺は帰りのバスの椅子に腰を下ろした。鞄から英単語帳を出して暗記を試みる。しかしそれでも、練習で注意されたことが気にかかる。

 流石にここで鼻歌を奏でる度胸はなかったので、楽譜の見直しは帰ってからということになるだろうが――。


 そう思いながら視線を前方に遣ると、思いがけず知り合いの後ろ姿が目に入った。


「あれ? 瑠衣さん?」


 声をかけたわけではない。逆に、いつもなら声をかけてくれるはずの瑠衣が、一人でいることの方が意外というか、違和感があった。


 どうかしたのだろうか? 軽く肩を上下させているが、あれはバスに駆け込み乗車をして息を切らしているからだろうか。


 いや、違うな。何となくではあるものの、俺は瑠衣の後ろ姿に不吉なものを感じた。しばらく様子を見ていた方がいいかもしれない。


 そうこうしているうちに、バスは駅前に到着した。次々に降車していく人々。半分は霞坂高校の生徒のようだ。

 瑠衣もその流れに乗るようにして、鞄を両手で持って降りていく。ここから先は、俺と瑠衣の帰り道は別々になる。


 だが、俺は敢えて電車を一本遅らせることにした。瑠衣のことが、どうにも気にかかる。

 いつもと変わらないように見えるのに、強いて言えば纏っている雰囲気、オーラのようなものが異質なのだ。

 それも、瑠衣の性格とはかけ離れた『何か』を漂わせている。


 一体全体、その『何か』とは何なのか。

 それは、駅ビルの食料品店の前で露呈した。俺が瑠衣の後をこっそりつけ始めてから間もなくのこと。


 ぐわしゃん、という暴力的な圧力が、俺を直撃した。正確には、この周辺を歩いていた人々の耳に捻じ込まれるような力、暴力的な音だった。


「ッ!」


 柱の陰から様子を窺っていた俺も、足の裏が十センチは跳ね上がった。


 だが、音はこれで終わりではなかった。がしゃん、ぐしゃんと連続する。叫び声も混ざり始めた。


「畜生! 畜生! ふざけやがって! 皆が皆、私のことを! どうでもいいと思いやがって! ぶっ殺してやる!」


 その叫び声――瑠衣、瑠衣なのか? まさかあの、いつも温厚で人一倍気遣いのできる、心優しい瑠衣がこんな暴力的な言動を? そこまで考えついて、俺は脱力してしまった。足に力が入らない。

 膝ががくり、と折れ曲がり、そのままぺたりと俺は座り込んだ。


 その眼前で、叫び声の主は警備員と思しき大の男二人に両脇を抱えられ、それでも滅茶苦茶に四肢を振り回しながら連行されていった。


「放せ! 放せよお前ら! さもなきゃ、脳天かち割って心臓を抉り出してやる!」


 それでも、徐々に叫び声は遠ざかり、鉄道警察の詰め所へと吸い込まれていった。

 後に残ったのは、滅茶苦茶に破壊された売店の電光掲示板と、呆気に取られる歩行者の群れ。それに俺だ。


「嘘、だろ……?」

 

 後を追わなければ。この一連の暴力行為の主犯、愛川瑠衣の下へ。

 今この場で、彼女の知人は俺だけだ。信じられないという絶望感と、助けなければならないという焦燥感に背を押され、俺はのっそりと立ち上がった。


 あんなの、瑠衣じゃない。あれは正気を失ったがゆえの蛮行だ。彼女は悪くない。

 そんな思いを脳内でぐるぐると回転させながら、俺はやっと感覚を取り戻した足を使って駆け出した。


         ※


 残念ながら、鉄道警察の詰め所の扉は目の前で封鎖されてしまった。だが、その扉を隔てても、俺は瑠衣の口から放たれる罵詈雑言を聞き分けることができた。

 これなら、耳を押し当てて盗み聞きできるかもしれない。


 俺はさささっ、と扉に近づき、耳を押し当てた。


「さあ、携帯と身分証明になるものを出しなさい」


 有無を言わさぬ警備員の声。だが、瑠衣はまだ騒いでいた。


「ふざけんな! あんたらはいつまで私をこんな目に遭わせるつもりなんだ! ここにいる全員、家族諸共ぶちのめしてやる!」

「まあまあ落ち着いて。話は専門のカウンセラーが聞いてくれるから」


 若い警備員が優しく声をかける。が、瑠衣にはまったく通じない。


「はン、どうせまた私を気違い扱いすることしかできない、能のない藪医者だろ? それより弁護士だ、弁護士を呼ばせろ!」


 ああ、これではどんどん瑠衣の心象は悪くなるばかりだ。

 俺のような、知り合いとであれば瑠衣も少しは話をしてくれるかもしれないが……。


 俺は駄目元で扉のノブに手をかけ、思い切り押してみた。

 すると、あまりにも呆気なくドアは押し開かれ、俺は前転の要領で警備員室に転がり込んだ。


「うわっ!?」


 突然の闖入者に、瑠衣も警備員も黙り込む。それほど驚かれることだったのだろうか。

 俺はいつの間にか警備員の間、瑠衣の正面で尻餅をついていた。って、そんな状況把握はどうでもいい。


「瑠衣さん、何があったんだ!」


 瑠衣が座らされている椅子の正面のデスク。それを挟んで、瑠衣の向かい側から俺は声をかけた。しかし唐突に、いや、案の定というべきか、俺は両肩をがっちりと掴まれていた。


「こら! ここは関係者以外立ち入り禁止だぞ!」


 俺を怒鳴りつけたのは、年嵩の警備員。それから彼は、施錠をし忘れた若い警備員を睨みつけ、すぐに扉を封鎖した。


 俺はごくり、と唾を飲み、二人の警備員の攻撃的な視線を見返した。


「おっ、俺は関係者です! 彼女と同じ部活動で……」

「ふむ、となると君の素性を明らかにしなければならないな。学生証を見せなさい」


 ええい、こうなったら当たって砕けろ。俺は胸を張り、できるだけ堂々としている(ように見える)態度で警備員に向き合った。すっと学生証を差し出す。


「県立霞坂高等学校……。驚いたな、県内随一の進学校じゃないか。なんでそこの生徒が他人様に迷惑をかけるんだ?」


 腕を組んだ年嵩の警備員が、ずいっと俺を見下ろしてくる。

 その威圧感に、俺は俯きそうになった。が、辛うじて視線を合わせ続けた。ここで目を逸らすことは、瑠衣が抱いていた何らかの問題から逃げ出すのと同じことのように思われたのだ。


 この皮膚がひび割れていくような緊張状態を解いたのは、若い警備員の言葉だった。


「少女の身柄の照会、終わりました。家族への通報も完了。二十分ほどで到着するそうです」

「分かった」


 俺とにらめっこをしていた警備員は、腕を解いてそちらを見遣った。

 やれやれとかぶりを振りながら、まったく最近の若い者の考えは分からんな、と呟く。


 間もなく、俺の身柄も明らかにされた。いや、されたところで痛くも痒くもない。

 俺は自分の身の振り方より、瑠衣の立場を心配していたからだ。


「なるほど、二人共一年生で合唱部所属、か。随分と過激なパフォーマンスでもやるのだろうな?」

「ぐっ!」


 その卑下するような言い方に、俺は我を忘れた。こちらに背を向け、肩を竦めている年嵩の警備員に殺意を飛ばす。

 格闘技など習ったことはないが、ドロップキックくらいなら喰らわせられるかもしれない。


 俺はデスクに手をついて立ち上がり、膝を屈伸させた。

 しかしその時、何かが俺の闘争本能にブレーキをかけた。

 瑠衣が俺の手を、自分の掌を包み込んだのだ。


 いつの間にか、瑠衣は暴れたり叫んだりするのをやめていた。それでもまだ興奮冷めやらぬ感じで、顔は紅潮して肩で息をしている。


「やめて、茂樹くん」

「瑠衣さん……」

「あなたにまで、私と同じようになってほしくない」


 どのくらいそうしていたのか定かでない。気づいた時には、若い警備員が詰め所の扉を開錠するところだった。

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