第23話


         ※


「そ、それで潤子先輩は……?」

「ご覧の通りよ。もう泣く気力もないんじゃないかしら」


 谷ヶ崎先生はいつもの足を組んだポーズで、片手でペン回しをしていた。随分呑気なものである。


「俺たちはどうすればいいんでしょう? 今の潤子先輩に、何かしてあげられることはないんでしょうか?」

「そのためにあなたを呼んだのよ、茂樹くん」

「はい?」


 ぱしっ、と音を立てて、先生は弄んでいたペンを握り締め、芯の出ていない方を俺に向けた。


「朔美さんや美幸さんにも、何かトラブルの兆しはあった。まあ、美幸さんの場合はこの二年間、ずっと事なかれ主義だったわけだけど。でもそれが、ある日を境にぱったりと解決されてしまった。ああ、もちろん二人共いっぺんに、というわけではないけどね」

「それがどうかしたんですか?」

「あなた、一枚噛んでるんでしょう? というか、主犯なんじゃない?」

「えっ? えぇ?」


 蛙が口から飛び出してきたかのような妙な音が、俺の喉から発せられる。

 俺ではなく、蛙が喉元でゲコゲコ鳴いているようだ。


 俺は両腕を広げ、ゆっくりとかぶりを振った。


「そんな、俺には何のことだかさっぱり……」

「まあまあいいじゃない、さっきの主犯、って言葉はただの比喩表現。誰もあなたを責めているわけではないわ。感謝することはあってもね」

「かん……しゃ……ですか」

「ええ」


 顔を上げると、先生の背後から西日が差す時間になっていることに気づいた。先生の表情はなかなか窺えないが、ペンをことり、と机に置いたところから察するに、真剣に話すつもりであるらしい。


「あなたの心根の優しさと、勇気を見込んでお願いするわ。今度は潤子さんを助けてあげてくれないかしら。必要な情報はあげたつもりだけど、もし足りなければ補足する。ただし、他の人には安易にバラさないように。どうかしら?」

「そう、ですね……」


 俺はふと、奇妙な疑問に囚われた。

 どうして自分は悩んでいるのだろうかと。


 俺は潤子を助けたいのか? 決まっている、その問いに対する答えはYESだ。だが、それでも戸惑っている。

 ああ、そうか。きっと自信がないのだ。責任を持てないと思い込んでいる。


 だが、朔実の時も美幸の時も、自信だの責任だのと考えやしなかった。そんな暇も余裕もなかった。

 ただ単に、俺は皆で声を合わせる楽しさ、喜びといったものに真っ直ぐだったのだ。


 現時点で最も経験値のある潤子が歌えない? そんな事態を見過ごしてはいられない。俺はさっと顔を上げ、先生と目を合わせた。


「やってくれるのね?」

「やります。必ず潤子先輩の心と、彼女の温かいアルトの音色を取り戻してみせます」


 相変わらず先生の表情は捉えづらかったが、それでもふっと微笑んだようには見えた。


「よし。先生も後方支援はやらせてらうから、あなたは司令官にして作戦参謀、ってところね。よろしく頼むわ、春山茂樹くん」


 すっと差し出された先生の右腕。俺はそれを、自分の右腕で握り締めようとして、思いっきり引っ張り込まれた。


「うわっ!?」

「もう、先生嬉しくなっちゃうわ! あなたみたいな人が彼氏になってくれたらいいのにねえ!」


 俺は息ができず、悲鳴を上げることも叶わなかった。先生の豊満な胸部に顔面を押し当てられていたのだから。


「~~~~~~~!」


 痴女だ! 痴女がいる! 誰か警察に通報してくれ!


         ※


「どはあっ! はあ、はあ……」


 俺はなんとか音楽準備室を脱出した。無人になった三年十組で鞄を拾い上げ、廊下に出る。


「まったく、あの先生は何がしたいんだ……」

「誰が何をしたいって?」

「うわっ!」


 ちょうど柱の陰になって、俺はすぐには彼女の存在に気づかなかった。瑠衣だ。


「ああ、びっくりした」

「私だって何事かと思ったよ。茂樹くんだけ先生に呼び出されるんだもの」

「そんなに珍しいことなのかい? 谷ヶ崎先生に呼び出し喰らうって」

「さあ? 私も新入生だから分からないけど。でも、きっと先生には見込みがあったんじゃない? 茂樹くんなら、潤子先輩を助けてあげられるって」


 瑠衣まで先生と同じことを言うのか。ふむ……。


「どうしたの?」

「いや、これは朔実先輩や美幸先輩の時にも言えることだったけど……。何でもかんでも俺が一人で解決してきたわけじゃないんだ。皆の協力が、絶対不可欠だった。部員の皆だけじゃなくて、家族のアイディアっていうのもたくさんあったけど」

「茂樹くんは家族想いなんだね、やっぱり」


 ん? やっぱりってどういう意味だ?

 その疑問が顔に出たのか、瑠衣はにこりと頬を緩めた。


「ねえ、茂樹くんってさ、今の自分のことが嫌いだったりする?」

「ん、そうだな……」

「やっぱりね」


 またしても言われてしまったな、やっぱり、と。


「どうしたんだい、瑠衣さん? さっきから意味深なことを言ってるようだけど」

「ううん? 合唱部員であなたに初めて会ったのは不肖この私、愛川瑠衣でございます。だからこそ、ってわけじゃないけど、なんとなく分かるんだよ。三週間前――入学したての頃は、茂樹くんはいろいろと消極的だった。人助けなんて自分にはできないと思ってたでしょ?」

「そりゃあ、まあ。こんな低い声で話しかけられてもビビられるだけだろうし」

「でもさ、茂樹くん」


 そこで瑠衣は、くるりと身体を回転させ、背中で両手を組んで俺を上目遣いに見つめてきた。

 どきり、とした。


 ああ、またこの感覚だ。

 俺の心臓はどうしちまったんだよ、もう。


「私の勝手な想像だけど、もう茂樹くんは、三週間前のあなたじゃない。今のあなたには、他人を助けるだけの力がある。それはきっと、私や先輩たちには及ばない力だよ」

「さっきも言ったろ、俺だけの力じゃなくて――」

「分かってる。だから、私がサポートするよ。微力ではございますが」


 そう言って、瑠衣は悪戯っぽく笑った。

 一瞬、時が止まったかと思った。

 

 陽光から切り取られた影も、微かに舞う埃も、瑠衣の笑顔までも。

 いや、止まっていたのは俺の方か。


「あのね、茂樹くん。私がこんなふうに話せる相手って、本当に少ないんだ。だから、お礼言っとくね。ありがと」

「あっ、うん……」


 それはお互い様じゃないのか。


「おっと、バス来ちゃうね! 急ごう!」

「あっ、ああ」


         ※


 駅前行きのバスは、ちょうど僕らが上履きをスニーカーに履き替えた頃にやって来た。

 全速力で校門を抜け、なんとか飛び乗る。


「ふう、間に合った」

「瑠衣さん急ぎすぎだよ……」


 さっきから感じていたけれど、今日の瑠衣はテンションが高い。青空天井だ。

 いや、確かに今も実際晴れてはいるけれど。


 ふうっ、と息をついて、最後尾のシートに腰を下ろす瑠衣。俺も隣に座り込む。

 偶然だろうか、俺たちの他にはほとんど乗客がいなかった。


「瑠衣さん、ここで相談なんだけど――」


 俺は谷ヶ崎先生に教わったことを、慎重に吟味しながら瑠衣に伝えた。潤子のプライバシーに傷がつかない程度に。


「問題は、身体は健康なのに心はそうじゃない、ってことなんだ」

「かといって、合唱部の部長としての役割も、ご両親からの成績についての圧力も、どかしようがないよね」

「ふむ……」


 どかしようがない、か。何らかの重機を使う必要があるのかもしれない。


「どかす……。跳ね除ける?」

「それは難しいと思うよ、茂樹くん。見たでしょう、さっきの潤子先輩……。そんな精神力、残ってないよ。これ以上頑張れなんて、私には言えない」


 俺は今までの潤子の姿を思い返した。

 遠慮がちで大人しくはあるものの、どうにか毅然としようとしているあの立ち振る舞い。あんなことをずっと続けていたら、潤子でなくとも逃げ出したくはなるだろう。あれだけ堂々と歌唱披露できる潤子でも。


 ん? 歌唱披露?


「……カラオケ?」

「ん?」

「瑠衣さん、潤子先輩、この前のカラオケでは無難な曲ばかり歌っていたよね?」

「うん、ジブリとか、昔の歌謡曲とか」

「それだけじゃ足りないんじゃないか? 潤子先輩だって、本当はもっと自分の意に沿った曲を歌いたかったんじゃないか?」

「自分の意に沿った曲……本当に好きな曲、ってこと?」


 顔を振り向けた瑠衣に、俺は大きく頷いてみせる。


「今週末、いや、遅いな。明日でいい、俺は潤子先輩と一緒に学校をサボる」

「ええっ!?」


 流石にこれには驚いたのか、瑠衣は短い悲鳴を上げた。


「シッ! 注目を浴びない方がいい」

「でも、学校サボる、って……」

「勉強よりも楽しいことがあるんだってことは、潤子先輩だって知ってるはず。それを自分の中に押し込めているんだ。だったら、学校を一日サボるくらい、どうってことはないよ」

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