第22話【第五章】
【第五章】
「む~ん……」
潤子の許可を貰った俺たちは、彼女が手にしていた紙を机の上に広げていた。昨年度末にあったという、大学入学模擬試験の結果だ。
そこには旧帝大の名前がずらり。加えて、合否判定の結果が大学ごとに表示されている。
流石に潤子も苦心しているようで、判定はD、またはCしかない。
潤子を除いた俺たち四人は額をつき合わせ、示し合わせたかのように顔を上げた。
視線の先には、先ほどからぺたりと座り込んだままの潤子。
俺は敢えて無知を装って、潤子に声をかけた。このまま独りにさせるわけにはいかない。
「へ、へえ~、世の中には面白い名前の大学があるもんですねえ! 難しすぎて、お、俺には分からないな~!」
「……」
「こんな大学を狙うなんて、さ、さっすが潤子先輩ですね!」
「……」
「そ、そうだ瑠衣さん! 皆にお茶を淹れない? 俺も手伝うよ!」
すると、潤子は微かに笑みを浮かべた。しかしそれは、俺の安直な気遣いに応えるのに必死な様子で、口角が僅かに上がっただけだった。
そのままかくん、とこうべを垂れて、長い溜息をつきながら肩を落とす。
「先輩、体調はいいんっすか?」
朔実の問いかけに、潤子は、まあね、とだけ返答。
やはり潤子は勉強と部活の二つに忙殺され、心理的に圧迫されて、限界を迎えてしまったのではないか。
「あんたも苦労するねえ、潤子」
潤子に歩み寄り、しゃがみ込んでそっと肩に手を載せる美幸。
潤子は自分の額に掌を当てながら、微かに声を震わせた。
「うん……。毎日ちゃんと睡眠時間は取ってるんだけどね……」
「食欲はあるのかい?」
「ええ、毎食ちゃんと食べてはいるけれど」
なるほど。健康上問題はないということか。となると、やはり心の問題なのか?
今日何度目かの深い溜息が、潤子の口から吐き出される。まるでオーバーヒートしたロボットが、排熱作業を行っているようだ。
なんの脈絡もない妄想だが、これが俺には一つのヒントとなった。
身体に問題がないのなら――。
「潤子先輩、疲れてらっしゃるんじゃないですか? そりゃあお身体もそうですけど、精神的な意味で」
「精神的……?」
「ええ」
こくりと頷き、俺は肯定の意を示す。
「歌うことは単純に体力を使いますが、運動部の練習ほどではありません。でも、心は、精神はどうだと思いますか?」
「どう、とは?」
「潤子先輩の疲れの原因は、勉強と部活の板挟みに遭って体力的に疲れたせいではないのかもしれません。そうではなくて、目的意識と義務感の高さから、先輩は疲れたんですよ」
ふむ、と微かに眉を上げて、潤子先輩はようやく立ち上がった。
「そうかもしれないわね……。でも茂樹くん、わたくしには分からないわ。何が原因でこんなことが起こったの? 何がわたくしのやる気を削いでいるの? それに、あなたの意見が正しいという根拠はどこにあるの?」
「そ、それは……」
潤子は決して俺を責めているわけではない。だがそれゆえに、彼女の意見は的を射ているように思われる。
「皆、苦労が絶えないわねえ。若い若い!」
そう言って音楽準備室から飛び出してきたのは、他の誰でもない谷ヶ崎先生だった。
「先生! 聞いてたんですか?」
「モチのロン! 可愛い生徒の人生相談だもの、こっそりだけど聞かせてもらったわ」
まるでバレエでも踊るかのように飛び跳ねる先生。何が楽しいのか、やたらめったら跳ね回っている。
「どしたんすか、先生?」
「お見合いの日取りが決まったのよん」
俺たちは声を合わせて、は? と一言。
「っていう内輪話は置いとくわね。今は部長さんの不調をどうにかしなきゃ!」
「何かいい方法でもあるんですか?」
すると先生は、ちっちっち、と人差し指を顔の前で振ってみせた。
「そうね……。じゃあ茂樹くん、あなたこっちに来なさい!」
「え?」
先生は音楽準備室への扉を開けて待っている。
「ちょ、ちょっと! 先生、あたいたちは? 蚊帳の外ぉ?」
「まあまあ朔実さん、ここは私と茂樹くんとにお任せくださいな。今日の部活はお休みね。んじゃっ!」
「どわあっ!」
先生にぐっと腕を引かれ、俺は音楽準備室に放り込まれた。
「とっ、突然どうしたんですか、先生?」
「シッ!」
唇に人差し指を当て、静かに、というポーズを取る先生。
「これからは小声で話すわよ、いい?」
「はあ」
「まあ、こんなのは女の子には刺激が強いかもしれないからね」
そう言いながら、先生はいつものややスポーティなスーツの上着を脱ぎだした。
「ちょっ! 先生、何してるんですか!? っていうか、俺に何をさせる気ですか!?」
「まあまあ、そう慌てないの」
先生は躊躇いなくブラウスの袖のボタンを外していく。俺はさっと目の前を掌で覆ったが、しかしそれ以上衣擦れの音がすることはなかった。
「何を想像してるのかは先生にも見当はつくけど、今はナシ。さ、これを見て」
「これ、っていったい何を――」
そう言いながら手をどける。俺の視界に先生の左手首が入ってくる。そして、ぞっとした。
「先生、こ、これ……!」
「うーん、だいぶ傷口は薄くなってきたんだけどね。一生残るかなあ、こりゃあ」
そこには、手首を真っ直ぐ横に一閃するような切り傷が無数に走っていた。これはまさか――。
「リ、リストカットの傷痕……?」
「ご明察。いやー、うちの部に男子がいてくれて助かったわ。女子、とりわけ今の潤子さんに見せるわけにはいかないからねえ」
俺は脳内をぐしゃぐしゃにされつつも、どうにか疑問を口にした。
「どうしてこんなことを?」
「ん? そうね、死にたかった、ってわけじゃないんだけど、生と死の境目に立ってみたかったのよ」
言っている意味がさっぱり分からない。
それが顔に出たのか、先生は僅かに首を傾げて言葉を続けた。
「茂樹くん、あなた、もしとっても辛い目に遭ったらどうする?」
「どうする、って……。そりゃあ、家族に相談します。でなければ、合唱部の皆に」
「いい判断だわ。でも、その両方が封印されたらどうする?」
「封印……?」
相談が禁じられてしまったら、ということか? まさか。
「今の潤子先輩がそういう目に遭ってる、っていうんですか!?」
「シッ! 静かにって言ったでしょ!」
音楽準備室の扉に耳を当てる先生。数秒の後、ほうっ、と安堵の息をついた。
「誰にも聞かれてはいないみたいね。本当は、こんなことは生徒に話しちゃいけないんだけど」
そう言って唇を湿らせてから、先生は語り出した。潤子の置かれた立場を。
※
秋野潤子は、生まれながらにして向上心の強い人間だった。
それは周囲の他人に対する配慮や気遣いにも及び、それに伴うストレスが少しずつ彼女の胸中に、人生という長いスパンの中で蓄積していった。
両親の期待を一身に受けた潤子は、自分の主張というものを持てずに育った。いや、持たせてもらえなかった、というべきか。
リーダーシップを執ることはあっても、それは皆のため。組織のため。集団のため。彼女は知恵を出すことはできるが、本心から熱意を持って取り組める物事に遭遇するのは稀だった。
その数少ない稀な物事。それこそが歌うこと、合唱をすることだった。
彼女は小学校高学年からその魅力に気づき、中学校でも合唱部に所属。この時に美幸と出会っている。
だがそれ以降、順風満帆な学校生活を送れたかと言うと、残念ながらそうとは言えなかった。
高校入試を易々とクリアした潤子だが、それゆえに両親から過度な期待を背負わされてしまったのだ。自分たちの娘なら、旧帝大くらい入れるだろうと。
勉強だけしていれば、まだよかったかもしれない。
合唱だけしていれば、気楽だったかもしれない。
しかし、片足立ちができるほどの余力は、潤子には残されていなかった。
歌うという行為に触れることで、過度な期待から解放されることを続けていた潤子。だが先輩たちが引退し、自分が部長になってからは、部活という行動の枠がこれまで以上に彼女を締めつけた。
ここで誰かに相談できれば、まだ何かが違ったかもしれない。
だが、両親は元より部員たちに対しても、弱音を吐くことを潤子は自ら禁止した。
そうする以外に解決する術を知らなかった。
自分さえ我慢すれば。大学入試さえクリアすれば。
そう思えば思うほど、潤子は自らの首を絞めていく。
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