第21話
※
翌日。
俺は帰りのホームルーム終了後、すぐさま鞄を引っ提げて三年十組に向かった。
「お疲れさまで……あれ?」
誰もいない。どういうことだ? どんなに俺が早く階段を上っても、三年生である潤子や美幸より早く到着することは難しいはずだが。
だが、その原因はすぐに耳に入ってきた。隣の音楽準備室から聞こえてくる。
「そうね、潤子さんはもうちょっと皆を包み込むような感じで。美幸さんも、潤子さんの響きをよく聞いて」
谷ヶ崎先生の声に続き、返答が二つ。
それを聞いて、ふと違和感を覚える。違和感といってもいい意味だ。こんなにやる気のある、はきはきとした美幸の声を聞くのは初めだったから。
「じゃあ、もう一回! 二十五小節目から」
ふむふむ、どうやら美幸再起動作戦は大成功だったらしい。
「おっつかれさまーっす! なんか今日はあつ――」
「シーッ!」
ずかずかと入室してきた朔実の前で、俺は人差し指を立てて見せる。それから顎で音楽準備室を示すと、さすがに朔実も気づいてくれたらしい。
「ぬおお! 美幸先輩、覚醒か!」
「そうみたいですね」
俺も笑みを隠し切れずにそう答える。
それからすぐに瑠衣がやってきて、ちょうど先生の個別レッスンも終了した。
「いや~、待たせちゃってごめんね! それじゃ皆、体操を始めて。終わったら呼んでね」
そう言って、先生は再び音楽準備室に引っ込んだ。きっと楽譜を読み込むためだろう。
それから数日間、俺たちは俺たちなりの最善を尽くして、練習に取り組んだ。
※
こうして迎えた、その週の日曜日。
老人ホームでの慰問コンサートの開催日。俺たちは谷ヶ崎先生の運転する車に六人で収まり、件の施設へと裏口から入った。
そこまでする必要があるのかとも思ったが、プロのミュージシャンっぽくてわくわくする。しかし、発表の場に臨むのは初めてだ。緊張感が足裏から頭頂部までをぴりぴりさせる。
「なんだか緊張するね、茂樹くん……」
「そ、そうだね瑠衣さん……」
そんな遣り取りをしていると、心なしか瑠衣が俺に肩を寄せてきたような気がした。別な意味で緊張が高まった俺は、悲鳴を上げずに済ませるだけで精いっぱいだ。
車が停まったのは、ちょうどその直後のことだった。
「はい、ではここで降りまーす。まずは待機室へ向かうので、荷物を持って係の人について行きましょう。貴重品の管理はしっかりとね!」
先生の言葉に、皆の意識がより高まる気配がする。
一足先に降車した先生は、老人ホームの係の人と何やら話し込んでいる。最終的な打ち合わせだろう。
「それじゃ皆、ついて来て!」
はーい、と声を合わせながら、俺たちは扉を抜けて施設の中へ。よくよく見てみると、老人ホームというのは小学校に似ているようだ。医務室があり、調理室があり、屋内運動スペースがある。
だが俺たちが向かうのはそのどれでもない。廊下を数回曲がって到達した先、そこは何のプレート表示もない、倉庫のような場所だった。
パイプ椅子や簡易テーブルが並び、きっちりと収納されている。
「この扉の向こうで、老人ホームの皆さんが待機しています。発声練習はできませんが……」
心配そうな係の人に、先生は、問題ありませんと一言。
それに従って、俺たちも頷いてみせる。
「分かりました。コンサート開始まであと十分です。よろしくお願いします」
そう言って、係の人はご老人方の待っているという広めの扉のそばに立った。
やがて、その扉の向こうから人の気配がした。思ったよりも大勢いるようだ。
俺は飛び跳ねる心臓を肋骨で押さえ込みながら、ごくりと唾を飲んだ。
《それではお待たせいたしました! 霞坂高校合唱部の皆さんによる発表会の始まりです!》
「さ、行くわよ、皆!」
先生と係の人が、観音扉を押し開ける。ソプラノである美幸から、朔実、瑠衣、潤子、それに俺の順でステージへと出ていく。俺にとっては初陣だ。
パイプ椅子や車椅子に腰かけたご老人たちが、温かい拍手を送ってくれる。その中には、茶道の宗像先生の姿も見える。
ああ、確かお母様がこの老人ホームで暮らしていたんだったか。きっとその繋がりで、俺たちの演奏を観にきてくださったのだろう。
その顔に笑顔が見えて、俺はまだ歌ってもいないのにほっとした。
「それでは皆さんお待ちかね! 霞坂高校合唱部の皆さんによるコンサートです! それでは、お願いします!」
俺がぐっと唾を飲むのと、スーツに着替えた谷ヶ崎先生が登壇するのは同時。
潤子がスマホを操作し、最初の音を俺たちに聞かせてくれる。
先生の指揮の下、俺たちはすっと息を吸った。
※
その日の夕方は、ちょうど茶道の稽古がある日だった。宗像先生に感想を訊く絶好の機会。
「こんばんは、先生! 今日コンサートにいらっしゃってましたよね? いかがでしたか?」
「ちょっと物足りなかったわね」
「そうでしょう? 僅か二、三週間とはいえ、俺たちが頑張った成果が――え?」
「あら、奇遇ね。あなたもそう思ってたの?」
宗像先生は時折、歯に衣着せぬ話し方をする。どうやら今回もそうらしい。
「どっ、どどどこが悪かったんですか!?」
「まあそう焦らないで。一回お手前をして、気持ちが落ち着いたらお話ししましょう。二回目のお手前はその後で」
「はい……」
俺は集中力を切らしながらも、どうにか一回目のお手前を終了した。
「やっぱり気になるみたいね、私の感想が」
「はい」
俺は正座したまま身体の向きを変え、先生に向き合った。
「どこがどう悪かったんですか?」
「そうね、あのアルトの子……部長さんかしら? ちょっと、何て言うのかしら、落ち着きに欠けるように聞こえたわね」
「潤子先輩の声が?」
まさか、最年長で最も経験豊富な潤子がミスを? いや、ミスとは言わずとも不安定な声だったと?
そんな感覚は、歌っている間は全くなかったが……。
俺はますます混乱しながら、二回目のお手前に臨んだ。
※
混乱は翌日もまだ続いていた。
「お疲れ様でーす」
いつも通りを装って、三年十組に足を踏み入れる。が、そこにいたのは三人だけだった。瑠衣、朔実、それに美幸。
よっぽど俺が急いでこなければ、潤子はもう到着しているはずなのだが。
俺が怪訝な顔をしているのに気づいたのか、美幸は肩を竦めてこう言った。
「潤子は休みだよ。朝から欠席だ」
「欠席ですか? 風邪でも引いたんですか?」
「いや、おかしいな。中学時代から潤子とは一緒だけど、今までずっと無遅刻無欠席だ」
「じゃあ、どうして?」
「あたしが知りたいよ」
やれやれとかぶりを振る美幸。
昨日、宗像先生は言っていた。潤子が不安定だと。もしかしたら、それに関することなのではないだろうか?
美幸の時のように、皆で潤子の下に向かうか? いや、それでは逆効果かもしれない。
普段から真面目な美幸のことだ。皆が露骨に心配していると示したら、精神的負荷をかけることになるかもしれない。
ここは、潤子が自分で部活に現れるまで待つべきか。
などと思案していると、まさに噂をすれば影とでもいうべきタイミングで、教室の扉が開いた。そこにいたのは言うまでもなく潤子である。
「潤子先輩! 今日は学校休んだって聞きましたけど、大丈夫なんですか?」
そう尋ねながらも、俺は潤子がとても大丈夫ではない状態に見えていた。
きっちり制服を着込んではいるが、髪はぐしゃぐしゃで顔面蒼白だ。
手には、何かの紙を握っている。
「先輩、それなんっすか?」
無遠慮に朔実が尋ねたが、潤子は沈黙したまま。扉の前で、じっとその紙を見つめている。
「やっぱり潤子でも難しいのかー、旧帝大ってのは」
「旧帝大? ああ、戦前からの歴史ある国立大学のことですか」
「そ」
紙を見ずにそう語った美幸。もしかしたら、一年後に入試を控え、潤子もピリピリしているのか。
だが、それではギャップが大きすぎる。教室で悩みながら問題に取り組んでいる潤子と、部活で皆に笑顔を振りまき、統率をとっている潤子。その差異だ。
「潤子先輩、無茶しすぎたんじゃないですか? 私も高校入試……と言っても一ヶ月前ですけど、勉強だけで手一杯でしたもん。部活と勉強の両立を目指すなら、やっぱり無理のない範囲で……」
そこまで言いかけて、瑠衣は口を噤んでしまう。
時間のバランスを取るというのは、人類共通、永遠のテーマだ。人間は限られた時間の中で最善を尽くせるよう、もがくしかない。
もちろん、そのためには休養も必要だ。
しかし、部長という立場上、潤子にはそんな余裕がないのかもしれない。旧帝大を狙っているならなおさらだ。
「はあーーー……」
潤子はぺたりと床に尻をつき、無気力なままぐったりと項垂れた。
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