第20話

 俺たちは、俺と瑠衣、朔実と潤子に別れて座席に腰を下ろした。

 朔実と潤子の二人は、どんなふうに美幸に語りかけるべきかの最終確認を行っている。

 それは先輩方にお任せするとして、唐突に瑠衣が声をかけてきた。


「ねえ、茂樹くん」

「ん?」

「怒らないで聞いてくれる?」

「ああ。怒らないよ」


 視線を左右に遣りながら、瑠衣は軽く深呼吸した。


「美幸先輩は、このまま合唱部を辞めた方が幸せなのかもしれない」

「っ!」


 これには流石に驚いた。喉を詰まらせるが、できる限りその気配を隠し通す。


「る、瑠衣さんはどうしてそう思うんだい?」

「だって、美幸先輩は本心から歌いたいと思ってるわけじゃないんでしょう? だったらいっそ、このタイミングで」

「ふむ……」


 いつもの俺なら、ムキになって反論を試みたかもしれない。だが、話題に上がっているのはあの美幸・マーキュリーである。

 彼女のあのグダグダぶりを見れば、確かに、部活を辞めさせてあげた方がいい、という瑠衣の意見は理に適っているように思える。


 だがそれでも、俺は瑠衣の考えに素直に頷くことはできなかった。

 最初に俺が合唱という形で歌わせてもらった時――『見上げてごらん夜の星を』を歌った時――に聞いた、美幸の美しいソプラノ。あれが失われてしまうのは、俺たちにとっても大きな損失ではないか。


 そうこうするうちに、さあ着いたわよ、と潤子に声をかけられた。


         ※


 バス停で降りると、既に太陽は傾きかけていた。西日が眩しい。

 そんなことにはお構いなしに、潤子はずんずんとある一軒家に向かっていく。


「ここが美幸先輩の家……」


 なるほど、分かりやすい。

 広い前庭は芝生が生い茂り、その中央には噴水のようなスプリンクラーが配されている。

 左手奥にはバイクが何台も入った格納庫があり、いかにもアメリカって感じがする。


 すると唐突に、潤子が駆け出した。


「マイケル!」


 そこにいたのは、一人の中年男性だった。ほっそりしていて鼻が高く、青い瞳は美幸のそれを思い起こさせる。

 男性は流暢な日本語で潤子に声をかけた。


「おお、ジュンコじゃないか! 久しぶりだね!」

「ええ、お久しぶりです! えーっと、皆! こちらはマイケル・マーキュリーさん。美幸のお父様よ」

「ようこそ、ガールズ! 君たちは、ミユキとはどんな関係なんだい?」

「わたくしがゲーセンで遊んでいる間に仲良くなったんですの!」

「ほほう!」


 マイケルは俺たちにすっと目線を飛ばした。


「おや、ボーイッシュな子が一人いるね! 彼女もジュンコの友達かい?」

「あ、彼は男の子です。シゲキといいます」

「おおう! これは失敬! あまりにもチャーミングな顔つきだったのでね!」


 いや、男の人に言われても嬉しくないぞ。


「さあさあ、皆、入ってくれたまえ! 若いボーイズ・アンド・ガールズは大歓迎だよ! 特にそこの君!」

「は、はいっ!?」


 突然マイケルに指を差されたのは瑠衣だ。


「君のようなキュートな子は特に歓迎だ! パーティの準備をしなければね!」

「ロリコンかっ!」

「てへぺろ!」


 俺のツッコミに対して、舌を出して応じるマイケル。ちょっと古いのがポイントなのだろうか。


「では、お邪魔致します」

「ウェルカ~ム」


 勝手知ったる様子で玄関扉を開ける潤子。そこには、美幸の母親がカーペットを掃除している姿があった。


「あら、潤子ちゃん! いらっしゃい!」

「こんにちは。今、美幸さんはどちらに?」


 そう言うと、僅かに母親は顔を顰めた。美幸そっくりの整った顔立ちがやや歪んで見える。


「あの子、昨日から自分の部屋に籠って出てこないのよ。何があったのか尋ねても返答なし。あなたたち、あの子を励ますためにわざわざ来てくれたの?」

「励ます、っていうか……。まあ、そんなところですわ」


 合唱部に復帰させるつもりだということは、伏せておいた方がいいようだ。


「潤子ちゃんたちなら、美幸も受け入れてくれるかもしれないわね。後でジュースとクッキーを持っていくわ」

「わあ! おば様のクッキー、いつも楽しみにしてるんです」


 すると、美幸の母親の顔から影がすっと引いた。


「それは嬉しいわ。じゃあ、先に二階へ。皆さんも遠慮せずにどうぞ!」


 俺たちは口々に、お邪魔します、とか失礼します、とか言いながら、広めの階段を上って美幸の部屋の前に立った。


         ※


 潤子が扉をノックするが、反応がない。

 だが、母親が言うには美幸は自室にいるはずなのだ。まずは、面と向かって話す態勢を整えなければ。


「美幸ちゃん? 潤子よ、入ってもいいかしら?」

「……」


 がちゃり、と潤子はドアノブを捻った。


「失礼しま~す」

「おう」


 そこにいたのは、仏頂面をした美幸だった。俺たちに横顔を向け、テレビゲームに臨んでいる。


「相変わらず、ゲームは好きなのね」

「まーね。他にやることもないし」


 すると、一瞥もされないことを意に介さず、潤子は美幸のそばに正座し、淡々と語り掛けた。


「今の合唱部には、あなたの力が必要なの。そろそろ練習に参加してもらえないかしら?」

「いっつもいるじゃん、あたし」

「あれじゃあその場にいる、ってだけだわ。一緒にわたくしたちと歌ってほしいのよ」

「潤子にしては珍しいね。あたしの考えを曲げようとするなんて」

「曲げようとなんてしていません!」


 俺は思わず口を挟んだ。


「潤子先輩は、美幸先輩のことを思って――」

「そのへんにしとけ、茂樹」


 俺を制する朔実。瑠衣は瑠衣で、話のキャッチボールを不安げに眺めている。


「少年くん、君も聞いたんだろう? あたしと潤子の話」

「ええ」

「なら分かるんじゃない? あたしは小学校時代から、この外見で除け者扱いだった。いい加減、心安らげる場所が欲しい」

「それが、わたくしたち合唱部の存在なのね? どんなにダレていても、非難されずに済むから」

「加えて潤子、あんたの権限の及ぶ範囲でもある。もっと言えば、あんたが選んだ部活だからな。多少は甘く見てもらえるんだろう?」


 その言葉に、俺はカチンときた。

 慰問コンサートや定演で、皆は一丸となって周囲の人々を笑顔にするため、練習を重ねている。

 そのはずなのに、このやる気のなさは一体なんだ?

 少なくともこの部には、美幸の容姿を蔑視するような輩はいないだろうに。


 俺が一歩、美幸に歩み寄る。

 すると美幸はゲームをポーズ画面にして、よっこらせとあぐらの姿勢から立ち上がった。


「少年くん、どうやらあたしが気に入らないみたいだね?」

「はい」

「殴ってくれてもいいんだよ? 別に誰にやられたとか言いふらすつもりはない。鉄拳一発で君らが引き下がってくれれば安い買い物――」


 パチン、といい音がした。

 が、俺はただ歩み寄っただけで、美幸に手を上げたわけではない。


 はっとして横を見ると、今まで沈黙していた瑠衣が息を荒げ、真っ直ぐに美幸を睨みつけていた。


「いい加減にしてください!!」


 俺は短い付き合いとはいえ、瑠衣が怒号を上げるのを初めて聞いた。


「簡単に美幸先輩の苦労が分かる、なんて綺麗事は言いません。でも、あなたにだって考える余地はあるはずです! だって私たち、同じ曲を歌う仲間じゃないですか!」

「そんなお涙頂戴な遣り取りで、あたしを心変わりさせられるとでも?」

「何もしないよりマシです! それに私、言いましたよね? 私たちは立派な仲間なんです! 他の心ない、あなたを奇異な目で見てきた連中とはレベルが違うんです!」


 レベル。きっとそれは、美幸をどれほど大切にしているか、という度合いのことだろう。

 確かに一般生徒に比べれば、俺たちには美幸を受け入れられる器の広さ、というか結びつきの強さのようなものはあると思う。レベルが高いというわけだ。


「少女ちゃん……」


 凄まじい剣幕に、流石の美幸も動揺している。ただ、その目だけはしっかりと瑠衣の視線を受け止めていた。


 瑠衣は恐る恐る、右手を差し出した。


「一緒に歌いましょう、先輩。必要かどうかなんてどうでもいいです。もし美幸先輩が、歌うのがお好きなら」


 小柄な瑠衣に、長身の美幸がじっと視線を注ぐ。いや逆か? いずれにせよ、二人の間で精神的葛藤があったのは確かだ。


「美幸・マーキュリー先輩。あなたの居場所は、ここにあります」


 そう断言した瑠衣の前で、美幸はがっくりと膝を折った。そして差し出されていた右手を両手で握り込む。


「……あたしも自棄になったのかな、それでいいような気がしてきたよ……」


 美幸はそのまま、無言で泣き崩れた。

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