第18話
「傷ついたのはお互い様さ。僕は茂樹を、友人として見放そうとまで考えていたんだ。なんて非情な奴なんだろうね……」
そうか。やはり涼介は怒っていた、というより、精神的に追い詰められていたのだ。俺のせいで。
いや、最早誰が悪いとは言うまい。大切なのは、こうして互いの心を開くということなのだろうから。
「僕は僕で、大切だと思える人を見つけて、きっと幸せにする。だから茂樹も、瑠衣さんを大切に――」
「ぶふっ!?」
俺は盛大に吹き出した。
「ちょっ、大丈夫か、茂樹!」
「ど……どうして瑠衣さんの名前が今出てくるんだ……?」
「え? 君たち付き合ってるんじゃないのかい? クラスメイトに聞いたけど、よく一緒に帰ってるって言うじゃないか。新入生としてこの学校に入って、二週間もしないうちにそんな仲だっていうなら、随分いいことなんじゃないかと思ったけど?」
僕はがしり、と涼介の肩を掴み、揺さぶった。
「俺と付き合ってるように見える!? 瑠衣さんが? そんなわけないだろう!」
「い、いや、そこまで強く否定せんでもいいと思うが……」
「はあ……」
がっくりと前のめりになりながら、俺は自分の眼前で片手をひらひらさせた。
「ないない。それはないよ。瑠衣さんにはきっと、もっとお似合いの人がいるはずだ。俺なんか目じゃないよ」
「そんなもんかなあ。今朝教室で、僕に向かってあれだけの啖呵を切った人間の言葉とは思えないけど」
「とーにーかーく! そんな浮ついた話、俺にはないよ! 他言無用!」
ぐるりと踵を返し、俺は妙にむかむかした気分で校舎に向かって歩み出した。
が、しかし。
「なあ、茂樹!」
「何だよ、涼介!」
「定期演奏会、六月にあるんだろ? 聞きに行くからな!」
「お……おう」
なんだ、そんなことを伝えるために呼び止めたのか。俺は再び背を向けながら、片手を上げてぶんぶん頭上で振り回した。了解の意を伝えるつもりだったのだが、ちゃんと伝わっただろうか。
※
三年生の教室のある三階への階段を上っていくと、早速皆の歌声が聞こえてきた。
合唱経験があまりない俺には、まだどれが誰の声なのかはよく分からないのだが。
「さて、遅くなりました、ってちゃんと言わないとな」
そう呟きながら廊下を曲がると、そこに一人の女子生徒が立っていた。
瑠衣だ。
あれ? もう練習は始まっているはずだが、どうかしたのだろうか?
「お疲れ様、瑠衣さん。何かあったの?」
「あ、茂樹くん!」
とてとてと駆け寄ってくる瑠衣。可愛い。って、早速涼介の言葉に踊らされているな。
「いかんいかん……」
「どうしたの、茂樹くん?」
「あ、ああ、何でもないよ」
俺は眉間に遣っていた手を離し、瑠衣に向き合った。
「瑠衣さんこそ、どうかしたのかい? もう練習は始まっているみたいだけど」
「それが、追い出されちゃってね」
肩を竦める瑠衣。首を曲げて教室の方に目を向けると、二人分の歌声しか聞こえていない。
俺と瑠衣を除けば、部員は潤子、美幸、朔実の三人。どうして一人足りないのか?
誰か欠席しているのだろうか、と考えた。が、常に欠席状態の先輩がいたことを思い出す。
「もしかして、美幸先輩のトラブル?」
「うーん、まあ、そんな感じかなあ」
言葉を濁す瑠衣。取り敢えず、突入してみる外あるまい。
敢えてドンドン、と荒っぽくノックする。
「失礼します」
「あら、茂樹くん!」
真っ先に声をかけてきたのは、谷ヶ崎先生だった。教卓に譜面台を立てて、指揮棒を手にしている。
先生の前には潤子と朔実が並んで立っていた。それはいい。問題はやはり美幸だった。
教室隅の机の一つには、ナマケモノのような雰囲気で美幸が上半身を預けている。
どういうことなんだ……?
俺はわざと大きめの声で、潤子に問いかけた。
「潤子先輩、美幸先輩は体調が悪いのですか?」
「ちょっ、茂樹!」
俺を引き留めたのは朔実だ。珍しく声を低めている。
「お前は知らねえだろ、先輩たちの都合ってもんを!」
「じゃあご存じなんですか、朔実先輩は?」
「んぐ……」
朔実は俺の前で俯いてしまった。
その隣に潤子がやってきて、重い口を開こうとしたその時だった。
「せんせー、あたし帰りまーす」
がちゃり、とアクセサリーの鳴る音を立てて、美幸が立ち上がった。
「美幸さん、いいのね? 潤子さんに説明してもらっても?」
「ええ。それでいいです。あたし自身が説明しても説得力なんかありゃあしませんから」
そう言って立ち去ろうとする美幸の鞄を、俺は引っ掴んだ。
じろっ、と美幸の眼球が動く。日本人離れした青い瞳が、その中央に俺を捉える。
「なーんか用かな? 少年くん」
ここ二週間で、俺以外の部員の声は聞き慣れてきたはず。が、こんなドスの利いた声を発せられたのは初めてだ。
俺が沈黙している間に、美幸はすっと鞄を引き抜き、それ以上何も言わずに教室を出ていった。
この期に及んで、俺はようやく自分の膝が震えていることに気づいた。
「ごめんなさいね、茂樹くん。怖い思いをさせたでしょう?」
「は、はい……」
「美幸ちゃんのこと、本当はわたくしからちゃんと後輩の三人には伝えておくべきだったのだけれど……。なかなかタイミングが合わなくて。当の美幸ちゃんだけを除いて電話やLINEで話すのも気が引けるしね」
そう言って、机と椅子を用意する潤子。
三つの机に五つの椅子(合唱部員と谷ヶ崎先生用)を揃えてから、さてどこから話そうかしら、と腕を組む。
「そうね、わたくしと美幸ちゃん――美幸・マーキュリーの出会いから話しましょうか」
※
潤子が美幸と出会ったのは、中学生の時。
この時既に音楽に興味を抱いていた潤子は、合唱部に入るか吹奏楽部に入るか、わくわくしながら入学式を迎えた。
翌日の部活動紹介へ向かう途中、よそ見をしていて一人の女子生徒と肩をぶつけ合うことになる。
「あっ、ごめんなさい!」
慌てて謝る潤子。だが、相手は無表情のまま一瞥もくれずに去っていく。
「あの子は確か……」
自己紹介の時の印象は鮮明に残っている。変わった名前だった。
確か美幸・ヴィーナス? 美幸・ジュピター? いや、違う違う。美幸・マーキュリーだ。
名前を覚えているということは、クラスメイトのはずだ。一緒に行動して、なんなら自分の選んだ部活の活動見学にでも誘ってみようか?
潤子がそう思ったのは、美幸への心配の気持ちからだ。
自己紹介も素っ気なかったし、父親はアメリカ人だと聞いている。日本産まれの日本育ちとのことではあるが、その容姿から、悪い意味で周囲から見られているのではないか。
それが、美幸に対する潤子の心配の中身だ。
部活動紹介まで時間はあるが、どうして皆と同様に体育館に向かわないのだろう? やはり人の多いところは苦手なのか? だったら自分が手引きしてあげてもいいのではないか。
潤子は人気の少なくなるところまで、美幸のあとをこっそりつけることにした。
美幸が足を止めたのは、昇降口だった。
自分の下駄箱を開き、シューズを脱いでスニーカーを取り出す。
まさか、このまま帰宅してしまうつもりなのか?
「待って、美幸さん!」
「……」
咄嗟に声が出てしまった。美幸は突然呼び止められたからか、目を見開いた。
やや荒れた呼吸を落ち着かせ、潤子は尋ねる。
「美幸さん、帰っちゃうの?」
「ああ」
帰ってきたのは、男勝りで投げやりな声。
「あたしは部活動をやるつもりはない。日本人は窮屈だからな」
「で、でも、うちの学校は何かの部活動に入ってないといけないんだよ?」
「知ってるよ、そんなことは。どうやったらサボれるか、よく考えるさ」
「そんな……」
思わず、潤子の声が震えた。それでも視線は外さない。目を逸らしたら、美幸は余計に孤立してしまう。そんな気がした。
潤子の世話焼きっぷりは、幼い頃から折り紙付きだ。
そんな潤子のことを知ってか知らずか、いや、知る由もなかっただろうが、僅かに美幸の青い瞳が細められた。
「あんた、秋野潤子、だよな」
「え、ええ」
「どうしてあたしを気に掛ける? 自慢じゃないが、小学校時代はずっと不良で通した、見た目のおかしいハーフだよ?」
「それは違う!」
より震えを強めながら、しかしはっきりとした口調で、潤子は出会ったばかりの美幸に呼びかけた。
「わたくしはあなたとは初対面だし、あなたのことは何一つ知らない! でも、日本人のことは知ってる!」
「というと?」
「ちゃんと関わろうとすれば、それに応えてくれるんだよ! そんな人がいてくれたら、見た目のことなんて些細な問題でしょう?」
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