第13話
これは厳しいだろうか。俺が涼介の優しさ、というより器の大きさに甘えているだけではないか。
そう思って俺が弁当に箸をつけようとした、その時だった。
「今日の放課後でいいんだね、茂樹?」
「ああ、そうだよ」
「十五分くらいなら、練習前に時間を取れそうだ。で、どこへ行けばいい?」
「それは、えーっと……。俺に任せてくれ」
「え? 音楽室じゃないのかい?」
「うん、ちょっと都合があってね……」
俺がお茶を濁しきれずにいると、涼介は、まあいいか、と一言。
「せっかくの、僕のためのコンサートだもんな。時間はないけど、ゆっくり楽しませてもらうよ」
「あっ、ありがとう、涼介!」
その後、思いの外時間が切羽詰まっていることに気づいた俺たちは、急いで弁当をかき込んだ。
※
そして放課後。
俺と涼介は、三階へ上る階段に足を掛けていた。
音楽室前を素通りすると、そこには屋上に出るためのひっそりとした階段があった。
「この先は……。屋上で歌うのかい?」
「まあ、ついて来てよ」
既に開錠されている。この扉の向こうに、朔実が緊張で背筋を強張らせながら待機している――。
そんな予想は、呆気なく崩れ去った。
「遅かったな、夏海涼介! そして春山茂樹!」
堂々と仁王立ちになり、指先をこちらに向ける朔実。
な、何をやってるんだこの人は? 確かに狙い通り、俺たち以外に人のいない、夕日の綺麗な場所だけれども。
「あっ、どうもすみません、廣坂朔実先輩」
「ほう! あたいの名前をフルネームで覚えているとは、流石だな!」
それはあんたがカラオケの時に二人で喋りまくったからだろうが。
「さて、夏海涼介! あたいは貴様に、一つ詫びねばならぬことがある!」
「は、はい?」
「茂樹について来れば歌を聞かせると約束したな?」
「ええ、まあ」
「あれは嘘だ」
「……はあ」
元ネタを知らないのか、涼介はぼんやりと朔実の方を見つめている。俺もそうしていたが、いくら何でもこれから愛の告白を執り行う雰囲気ではない。
と、ここで涼介がもっともな疑問を投げかけた。
「じゃあ、今日はここで何をするんです? 屋上なんて人気のないところで……」
「告白だ」
「ちょっ!?」
俺は朔実にツッコミを入れかけて、その場で転倒した。
そんな俺のことを知ってか知らずか、朔実はいつもの通り、ツインテールを揺らしてこう言った。
「夏海涼介! あたいに娶られてくれ!」
「……」
「あるいはあたいを貴様が娶ってくれてもよいぞ! どうだ?」
「め、娶るって、結婚前提ですか!? いくら何でも早すぎブギャッ!」
朔実の足先から射出されたシューズが俺の鼻先を直撃。俺は完全に沈黙した。
と見せかけて、俺は屋上で這いつくばりつつも二人の方を交互に見合わせていた。
腰に手を遣り、自信満々の朔実。
一方、涼介はその視線を真っ直ぐ受け止めながら、眉根に皺を寄せて何かを考えていた。
そして、思いがけず俺は声をかけられた。
「なあ、茂樹」
「んっ!? なっ、ななな何だ、涼介!?」
「この前のカラオケも今日の呼び出しも、茂樹が仕組んだことなのか? 全部朔実先輩のためを思って」
「え、ええっと……」
俺は何をどう言えばいいのか分からなかった。涼介は喜んでいるのか? 怒っているのか? はたまた悲しんでいるのか?
俺の予想より遥かにはっきりした声音で、涼介は朔実に語りかけた。その目には真摯な光が宿っている。
「朔実先輩、僕にこれほどの好意を寄せてくださったこと、心より感謝します」
「うむ!」
「しかし、僕は先輩のご期待に沿うことはできません」
「それはそうだろ……えっ?」
「あなたには、こうしてあなたの幸せを願う仲間がいます。有体な言い方ですが、あなたにはもっと相応しい男性がいるはずなんです。どうか、僕のことは気にせずに。そして、どうかお幸せに」
それだけ言うと、涼介は踵を返して屋上階段を下りて行った。
残されたのは俺と、恋破れたらしい朔実。さっきから彼女はぴくりとも動けずにいる。
いや、それはお互い様だったかもしれないな。きっと、涼介の優しさ、懐の深さに心打たれていたのだ。
だが、現実とは残酷なものだ。きっと今、朔実の心の底から、絶望感がじわりじわりと湧き上がってきているに違いない。
その瞳に夕日が映り込んで橙色に輝いていた。が、すぐにこうべを垂れてしまう。それから再び、腕を腰に当てた。
「あっちゃあ、やっちまったぜ」
「せ、先輩……?」
「いつもの、自然体のあたいでぶつかろうと思ったんだけど、やっぱ駄目だったわ」
「……」
「悪かったな、茂樹。お前にはいろいろ面倒をかけた」
「……」
「なあ、何か言ってくれねえか。でないと、あたいは……」
そう言った時には、もう手遅れだった。
朔実はがっくりと膝を屋上につき、まるで撃たれて呆然とする兵士のように夕焼け空を見つめた。
「う、ぁ……」
「先輩、大丈夫で――」
「うわああああああ!!」
それは悲鳴でも嘆きでもない。慟哭だった。
俺は呆然と、その姿を目に焼き付けることしかできない。
その後、どうやって朔実を宥め、屋上の鍵を返却し、帰宅を果たしたのか、俺にはさっぱり記憶に残っていない。
※
《それじゃあ、朔実さんはフラれてしまったのね?》
「はい、俺の力及ばず……」
その夜、俺は自室のベッドの上で体育座りの姿勢で、潤子と通話していた。
「あの、朔実先輩からそちらに連絡はありましたか?」
《いえ、まだないわね》
それほどの傷心事項だったということか。
天に向かってわんわんと叫び散らす朔実の姿。それを見ていた俺には、否応なしに納得させられてしまう。
「俺、少しは励まそうとしたんですけど、朔実先輩は泣き叫ぶばっかりでどうにも……」
《でしょうね。茂樹くん、あなたが自分を責めることはないわ。でも、どうしたら朔美さんが元気になってくれるのか……。今のわたくしたちには、彼女のメゾソプラノが必要よ》
俺は音のない溜息をついた。一体どうすれば。
せめて、朔実と同じような経験をした人間がいてくれればいいのだが――。
「あ」
《ん? どうかしたの、茂樹くん?》
「はい! お力になれるかもしれません! すみません、今日はこれで失礼します!」
潤子の返答も聞かずに通話を切って、俺はベッドの上から跳ね上がった。
スマホを枕元に放り投げ、勢いよくドアを引き開ける。そのまま隣の、聡美の部屋へとノックもなしに飛び込んだ。ざざっ! とその場で土下座する。
「聡美! お前、どうやって失恋から立ち直ったんだ? 教えてくれ! 頼む、この通り……だ?」
何故疑問符がついたのかといえば、聡美が沈黙しているからだ。
「ああ、悪い! ちゃんとノックしてから入るべきだった! 勉強の邪魔だったか?」
そういって顔を上げる。真っ先に目に入ってきたのは、聡美の紅潮した顔だった。
僅かに視線を下げると、彼女は下着姿。色はピンクか。
「って、なに妹の着替え覗いとるんじゃ変態兄貴があああああああ!!」
直後、聡美の踵が俺の後頭部に勢いよく振り下ろされた。
※
「で、用件は?」
「は、はぃい、聡美様……。先ほどのご無礼、何卒お許しを……」
「それはもういいから! あたしに何か相談があったんでしょ? さっさと話しなさい」
「はぃい……」
背もたれつきの椅子にどっかと腰を下ろし、聡美は腕を組んだ。
俺はその足元にひれ伏す姿勢で頭を下げている。
「あ、あのぅ……。聡美殿はどうやって、し、失恋から立ち直られたのかと思いまして……」
「む」
僅かに唸る聡美。何か気に障ることを言っただろうか?
「兄ちゃんからは、あたしが立ち直ったように見えてるの?」
「え? 違うの?」
俺は顔を上げた。今の聡美は、ちゃんとパジャマを着用している。
すると聡美はやれやれとかぶりを振り、兄ちゃんは恋愛に疎いからなあ、と言い放った。
「人間ってね、意外と失恋を引き摺るもんなんだよ? 男性の方が長く引き摺りがちだって聞いたことはあるけど、人によるよ。女性だって落ち込みが酷い人は引き摺るし」
「じゃ、じゃあ、お前もまだ引き摺ってるのか?」
「まあ、ね」
ふう、と息をついて目を逸らす聡美。その横顔は、妙に大人びて見えた。
「じゃあ、どうしていつも通りに振る舞えるようになったんだ? いや、少なくとも俺には普通に見える、ってだけの話だけど」
「そうだね……」
聡美は足を組み、膝の上に肘を載せ、片手の掌に顎を載せた。
じっ、と俺の頭上あたりを遠い目で見つめる。
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