第12話【第三章】
【第三章】
その日の夜。
カラオケの後、ファミレスで夕食を摂って解散してから、しばしの時間が経過していた。
「もう九時半か」
帰宅して風呂から上がり、今日のニュースを父と眺めてしばし。俺は自室に引っ込み、机の上のデジタル時計を見つめていた。
明日は日曜日で休みだが、早いうちに宿題を片づけてしまった方がいいだろう。
そう思って、通学用の鞄から数学のテキストを取り出した。
が。
「……気が乗らないな」
まあ宿題なんてもの、やりたくなくてもやらねばならんわけだが。
そんなこと、頭では分かっている。しかし、どうにも自分の脳みそが白い靄に包まれてしまっているようで、なかなかやる気が一定値を越えられずにいる。
原因は実に明確だ。
今日の朔実と涼介のこと。あの二人、和気あいあいとしているように見えたけれど、それは涼介の心が広く、話題への同調性が高かったからかもしれない。朔実を恋人として見てくれるかどうかは、涼介のみぞ知るといったところだ。
「やっぱり断るべきだったかな、朔実先輩の件」
俺は椅子から立ち上がり、窓を開けながら呟いた。
冬でも夏でもない、まさに春らしい柔らかな風が頬を撫でていく。
確かに春は、出会いと別れの季節。だが高校入学からこの一週間は、いくらなんでも波乱万丈すぎやしないか。不似合いなことばかりやっている気がする。
やはり俺は優柔不断だったか。
不安やら心配やらで、心がごちゃごちゃになっている。
「俺にできることなんて、もうこれ以上はないんじゃ――」
そう言いかけた時、机の上から電子音がした。スマホの着信だ。振り返って机に向かい、スマホを手に取る。そして、思わずぐびり、と唾を飲んだ。
「……春山です」
《おう、茂樹! あたいだ、朔実だ!》
「そりゃあ分かりますよ、ちゃんと着信表示が出るんですから」
《明後日の月曜日の放課後、手伝ってくれ! 夏海涼介に告白するぞ!》
ううむ、やはりそう来たか。乗り掛かった舟だ、こうなったらきちんと事の顛末を見届けねばなるまい。
「で、俺は何をすればいいんです?」
《放課後、屋上に彼を呼び出してくれ! それと、あたいが告白して返事を貰うまで、一緒にいてくれ!》
「……え?」
告白って、自分と相手しかいない場所でするもんじゃないのか?
《あたいは当たって砕けろ、ってのが心情だ! あたいがフラれたら骨を拾ってくれ!》
「言っている意味が分かりません!」
《まああれだよ、あたいだって不安なことはあるもんさ。だから茂樹、そばにいてくれ!》
「だって、先輩が一緒にいたいのは涼介の方でしょう? 俺なんか――」
《なんだ、まだ気づいてないのか?》
俺は再び、え? と声を零してから、しばし沈黙した。
《いいか茂樹、お前には不思議な力があるんだ。その場にいるだけで、他人を安心させてくれるような》
「余計意味が分かりません。俺はこんな地声なんですよ? 驚かれたりビビられたりすることはたくさんありましたけど、他人を安心させるなんて」
《自覚ねぇんだなあ》
電話の向こうで溜息をつく朔実。
《ま、それはいいや。取り敢えず明後日の放課後はよろしく頼むわ。あたいもできるだけ早く屋上に出るから》
「分かりました。俺にできることなら、その範囲内でお手伝いします」
《ようし、それでこそ我が臣下!》
あんたはどこの殿様だ。
《それじゃ、風邪でも引かねえように気をつけろよ! んじゃっ!》
「あ、はい、お疲れ様で――って切れてるし」
スマホを机に置いて、俺は再び窓枠に肘をつき、顎を掌に載せた。
「……寝よう」
※
なかなか寝付けずに迎えた翌日。
思いの外長時間が経過していたらしく、俺が気づいた時には朝日がさんさんと窓から差し込んでいた。
もう少し寝ていても罰は当たるまい。そう思って掛布団を引っ張り上げた、その時だった。
ドンドンドン! と勢いよく部屋のドアがノックされ、間髪入れずに開かれた。
「おっはよ~、兄ちゃん! 可愛い妹があ~、午前十時をお~、お知らせしますう~!」
「うわっ!」
俺は跳ね起きた。
「なっ、何だ何だ!?」
「ちょっと、何だ何だ、はないんじゃない? せっかくあたしが起こしに来てあげたのに!」
「いやびっくりしたんだよ! お前の情緒不安定っぷりに付き合わされる身にもなってくれ!」
「そんなこと言って、嬉しいんでしょ? だってあたしは、兄ちゃんの妹だもん!」
ニヤニヤしている聡美を見て、俺はつくづく実感した。
リアルに妹を持つ人間に、シスコンはいない。
「もう皆、朝ご飯食べちゃったよ? 兄ちゃんもちゃんと決まった時間に食べなきゃ!」
「ああ、分かったよ」
のっそりと俺は身を起こす。後頭部をガシガシ掻く俺の前で、ずいっと顔を寄せてくる聡美。俺はその視線を真っ直ぐに受け止めた。
「ん?」
「どしたの、兄ちゃん?」
「い、いや、何でもない」
「じゃ、早く顔洗って歯磨いて、ダイニングに来てね!」
すると俺の返答を待たずに、聡美はすたたたっ、と退室していった。
しかし俺は、ベッドから足を下ろしたまま、今覚えた違和感について考えていた。
「聡美のやつ、いつの間に元気になったんだ……?」
一ヶ月前、聡美は部活の先輩に告白して失恋している。
彼女を元気づけたものは一体何だ?
今の俺の恋愛経験では、貧弱すぎてさっぱり分からない。聡美の身に起こった何某かについての考察は、今は頭の隅に留めておくことにしよう。
※
翌日の目覚めは早かった。
時刻はまだ午前五時を回っていない。
どうしてそんな時間に覚醒したのか? 緊張のせいだ。現に意識が覚醒したばかりの今でも、不安とも焦りともつかない感覚に囚われている。
原因は明らか。朔実の恋路の行く末を見届けるという、重責を担っているからだ。
昨日連絡をもらったところでは、屋上の鍵は朔実が預かっておくとのこと。あとは俺が涼介を誘導するだけだ。
ここは申し訳ないが、涼介には嘘をついてでも、引っ張り出させてもらうほかあるまい。
「朔実先輩、ちゃんと砕けないように当たってくださいよ……」
今の俺には、これ以上のことは言えない。
そんなことしかできない自分に、俺は小さく舌打ちした。
朔実が指定している時間と場所は、放課後にできるだけ早く、屋上でということだ。ちょうど夕日が差す時間帯。ドラマチックな演出を狙ったのだろうか? まあ、雰囲気は多少出せるかもしれない。
そこまで思い出してから、俺はもそもそとベッドから這い出した。
そして朝の登校準備を済ませ、電車とバスを乗り継いで校門前に到着した。
涼介は朝練に参加するため、二、三本は早い電車で登校している。鉢合わせしなかったのは好都合だ。
時間はどろどろと流れ、昼休みに入った。
「涼介、ちょっといいか?」
「もちろん。僕も茂樹と一緒に弁当を食べようと思ってたんだ。今日は天気もいいし、グラウンド沿いのベンチに行こう」
これは好都合だ。屋外なら俺も話しやすい。地声の低さを気にせずに済む。
俺はすぐさま鞄から弁当箱を取り出した。
「よし、このあたりにしよう」
涼介に連れられていったのは、彼が提案したベンチだった。ちょうど木陰になっている。
昼練をしている野球部員の姿や、同様に木陰で涼んでいる生徒たちの姿が見受けられる。
「なあ涼介、一つ頼みたいことが――」
「ごめん、茂樹」
「どっ、どうしたんだ?」
「やっぱり僕にはサッカーが向いてるみたいだ。合唱部には入れない。あんなに皆にはお世話になっておいて、ひどい言い草だとは思うんだけど」
「ああいや、そんなことは気にしなくていいんだ」
僕は弁当を膝に載せながら、ぶんぶんと両手を振った。
「それより、俺たちにもう一度だけチャンスをくれないか? 今日の放課後に十分、いや、五分でいい。俺たちが歌うのを聞いてみてほしいんだ。カラオケとは全然違うし」
「いや、でも申し訳ないよ」
「それはこっちも同じだ。音楽会に来てくれる、って感覚で構わない。同行してもらえないか?」
涼介は一旦箸を仕舞い、顎に手を遣って唸った。
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