第9話

「何? 謝れって? あんた誰に向かって口利いてんの? 一年のくせに」


 ふん、と鼻で笑い飛ばそうとした女子生徒に向かい、俺は言葉を続けた。


「学年は関係ありません。悪事は悪事です。もう一度言いますけど、あの子に――愛川瑠衣にきちんと謝ってください」


 そう言い終えた瞬間、ガツッ、という鈍い衝撃が俺の脛に走った。


「ッ!」


 どうやら蹴られたらしい。弁慶の泣き所、ってやつだ。

 上手い具合に相手の爪先が食い込んでしまったらしく、俺は呻き声をあげそうになった。


「あっ、茂樹くん!」


 とてとてと瑠衣が駆け寄ってくる。


「大丈夫? 私のことはいいから……」

「あら? 打ちどころが悪かったみたいねえ?」


 再び哄笑を撒き散らす三人組。

 俺は思わず殴りかかりそうになったが、それはできない。相手は女子だし、そもそも暴力沙汰になってしまっては、俺もまた同格扱いされることになる。


 ただ一つ、俺の中で変化があった。

 こうなったら……!

 俺はざっと瑠衣の前に腕を翳し、叫んだ。


「謝れっつってんだろうが!!」


 周囲の目を無視して、俺は完全にリミッターを解除した。

 廊下の窓ガラスがガタガタ鳴り、反響した声がぐわんぐわんと響き渡る。

 俺が今までの人生の中で、初めて思いっきり大声を上げた瞬間だったのかもしれない。


 すると女子生徒三人組は目をまん丸にして震えだした。

 ダンッ! と音を立てて、俺は一歩、三人に詰め寄る。

 すると女子生徒たちは悪びれる様子を引っ込め、ぼそぼそと、悪かった、だの、すみませんでした、だのと呟いて、昇降口の方へ消えていった。


「いてっ」


 鋭い痛みがよみがえり、俺は腰を折った。蹴られた脛が痛みを訴えている。


「だ、大丈夫、茂樹くん!?」

「ああ、大丈夫だよ……。机の角にぶっつけたようなもんだと思えば……」

「念のため病院、あ、それよりも保健室に行った方がいいよ!」

「ごめん、瑠衣さん。勧誘活動、手伝おうと思ったのに」

「気にしないで。私の方こそ、感謝したいくらいなんだから」


 顔を上げると、そこには穏やかさを取り戻した瑠衣の笑顔があった。

 俺は地声の低さを自分の短所だと思っていた。厄介なものだと。でも、実際はそれが他人を救う手段の一つにもなり得るらしい。


 俺は瑠衣に付き添われ、蹴られた方の足を引きずりながら、のそのそと保健室へ向かった。

 予想外だったのは、瑠衣がそっと俺の手を握っていてくれたこと。……不覚ながら赤面した。


 保健室で休んでいると、母からメールが入った。学校まで迎えに来てくれるという。

 それを告げると、瑠衣は安心した様子で、しかしその場を立ち去ろうとはしない。


「どうかしたの?」

「ううん、ちゃんと茂樹くんのお母様に挨拶しようと思って」

「そんな気を遣わなくても……」

「私の方が落ち着けないんだよ、このままでじゃ」


 そういうものなのか。

 その後の記憶はぼんやりしている。緊張が一気に解けて、頭がふやけてしまったのかもしれない。


 それでも、瑠衣が俺の母とお辞儀し合っているのと、自分が担架で車のそばまで運ばれていくのは感じられた。


         ※


 翌日。


「霞坂高校合唱部でーす! 部員募集してまーす! どうぞ遊びに来てくださーい!」


 瑠衣はすっかり元気になった。まだ知り合って日が経ったわけではないが、以前より積極的になったように見える。


 俺を勧誘した時は、怯えた小動物が勇気を振り絞って飴を配っている有様だった。

 だが今は、一年生が行き来する廊下の真ん中で、積極的にビラを配っている。


 昨日の一件は、あれはあれでよかったのではないか。そんなことを考えつつも、俺はどこか胸中にわだかまりがあるのを感じていた。


 それは、相変わらずの地声の低さだ。

 俺の声には、人を救う力がある。前向きに捉えればそう言える。だが、あの不良女子生徒をぎゃふんと言わせてやったのもまた、俺の声なのだ。

 俺は地声で他人をビビらせるだけの力を有している。それが一方的にいいことなのか。断言できる人間はいないだろう。


「茂樹くん、茂樹くん?」

「ん? あ、ああ。どうしたの?」

「そろそろ勧誘活動は切り上げないと。先輩たちが待ってるから」


 俺は軽く頷いて、余ったビラと飴の容器を抱え、三年十組へと足を向けた。

 階段を上りながら、瑠衣が声をかけてくる。


「今日からいよいよ歌唱練習だね」

「自信ないなあ……」

「大丈夫! 皆経験者だし、私でよければ手取り足取りを教えてあげるから!」


 ふと横を見る。そこには、季節外れの向日葵のような笑顔が輝いていた。

 どくん、と心臓が肋骨を打ち、その向日葵から目が離せなくなる。


 これが恋、というものだろうか?

 いくら朴念仁を自称する俺でも、全くの無経験というわけではない。恋に落ちるという感覚に囚われたことは当然ある。


 しかし、今の俺は戸惑いを覚えていた。

 どうして昨日、俺は我を忘れて怒号を上げたのだろう。見過ごすことだってできたのに、何故不良たちに立ち向かったのだろう。


 単に自分の知人である女性がそばにいたからといって、あれだけの行動に出られたとは思えない。

 それとも、瑠衣は俺にとって、最早知人以上の何者かであるということだろうか。


「……」

「茂樹くん、今日はあんまり喋らないんだね。何かあったの?」

「いや、ちょっとね」


 俺は軽く肩を竦めた。なんともないよ、と瑠衣に見せつけるつもりだった。


「そう? 変な茂樹くん」


 悪戯っぽい笑みを浮かべて、瑠衣は三年十組の扉を開けた。


         ※


「こんにちは、茂樹くん、瑠衣さん。勧誘お疲れ様」

「おいおーい、連絡なかったぞ! 一人も取っ捕まらなかったのか?」


 潤子と朔実が声をかけてくる。


「こら朔実さん、二人を責めてはいけないわ。そろそろ新入生も部活との向き合い方を決める頃なのよ。わざわざ人員を割いて勧誘活動をする余裕もなくなりつつあるし」

「そらぁそーっすけど……」

「それより、掲示板に貼るポスターの作製を続けましょう」


 唇を尖らせる朔実の肩を軽く叩き、潤子は床に敷かれた新聞紙に向かった。

 随分広い新聞紙だ。その上に白いプリント用紙が置かれ、鉛筆書きで縁取られたポップな文字が並んでいる。ところどころには、音符を模したオリジナルキャラクターの下書きが為されていた。


「へえ、これがポスターですか」

「そう、これを元にして描いてますわ」


 そう言って潤子が差し出したのは、A4判のプリント。既に着色されている。

 水色を基調にした、爽やかで音符が飛び出してきそうな躍動感あふれる一作だ。


 なるほど、これを拡大するようにしてポスターにするのか。素人目ながら、非常に注目を浴びそうな……って、待てよ。何だこれは?


「潤子先輩、このサインみたいなものは何ですか?」

「ああ、これは正真正銘のサインよ。美幸ちゃんのね」

「え?」


 俺と瑠衣が顔を上げる。潤子の指さす方を見遣ると、美幸が相変わらず机に突っ伏したまま寝息を立てていた。


「このポスター、美幸先輩が描いたんですか?」

「ふみゅ……あたしが描いたんじゃ意外? むにゃむにゃ……」

「あっ、いえ、そういうわけでは……」


 慌てて両手を顔の前で振り回す俺。そんな俺の方を見もせずに、美幸は机に突っ伏したままだ。


「美幸ちゃん、創作とか芸術関係にはいろいろと才能があってね。これだけのものをさらさら描けるんだから、ちゃんと努力したらどうかってわたくしはいつも申し上げているのだけれど」

「そ、そうなんですか……」


 この何とも言えない沈黙を破ったのは朔実だ。


「あっ、潤子先輩。そろそろ練習始めません? あたいの喉も温まってきたんで」

「それもそうね。美術部から借りてこられたのもインクと筆一本……。ポスター作製は一人ででしかできませんものね。せっかく茂樹くんも瑠衣さんもいることだし、発声練習から始めましょうか」


         ※


 この日に覚えたことは二つある。

 一つ目は、合唱のための準備運動はラジオ体操と似ているということ。

 二つ目は、普段意識して使わない筋肉・不随意筋を動かすものであるということ。


 不随意筋を動かすのに何より大事なのは、身体を強張らせないこと。つまり脱力だ。

 俺は身体が固い方ではないが、いざ柔らかくしてみようと言われると難しい。


 ナマコだのクラゲだの宇宙人だのを想像してみたが、なかなか上手くいかない。


「最初は皆こんなものよ。ゆっくり覚えましょう」


 その潤子先輩の笑顔に、俺はほっと胸を撫で下ろした。

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