第8話
※
翌日は、瑠衣とバスで会うことはなかった。合唱部関連で忙しくしているのかもしれない。
放課後までは、頭が三角形になりそうな難しい数学や物理と格闘して過ごした。
やっとのことで七校時を終え、教室を出て上階へと向かう。
「こんにちは~」
と言いながら三年十組のドアを開ける。そこにいたのは、潤子と美幸、朔実。それに谷ヶ崎先生だった。机をくっつけて、何やらプリントの束を扱っている。
「あら、いいところに来てくれたわね、茂樹くん」
「あっ、はい」
先生はそのプリントを、ほい! と俺にも差し出した。
「あの、これは?」
「勧誘のビラ配り! せっかくだから、一年生であるあなたにも手伝ってもらおうと思って」
「勧誘……。勧誘!?」
俺はぎょっと身を退いた。
「もう瑠衣さんがビラ配りを始めてるところだろうから、助っ人に行ってあげて」
「ちょっ、待ってください、先生!」
「何? もっとビラ持ってく?」
「いやそうじゃなくて! 勧誘ってことは、たくさんの人を相手に声を出す、ってことですよね? 俺が自分の声に自信がないってこと、先輩方から聞いてないんですか?」
「聞いてるわよ?」
「じゃあどうして……!」
すると先生はぽん、と俺の両肩に手を置いて、こう言い放った。
「あなたには見込みがあると、私が判断した! 人に好かれる、素敵な声だってね!」
「……えー……」
俺のさも嫌そうな声に、先生は眉間に手を遣りながら、あちゃあ、と天を仰いだ。
「これだけ素敵な重低音を聞かせておきながら、随分と弱気なのねえ」
「弱気どころの話じゃないですよ。立派なコンプレックスです」
「コンプレックス?」
「それにしては、私が発声練習をしてあげた時は随分楽しそうだったけど?」
ぎくり、と背筋に電流が走った。
「茂樹くん、先生が思うにね? あなたは自信を持てずにいるのよ。逆に言えば、自信を持てればあなたの世界は大きく広がるわ」
「世界が、広がる……?」
「そう! その通り!」
先生は両腕をぴん、と伸ばし、両腕で大きな円を描いて見せた。
そんなオーバーアクションを見ながら、俺の脳裏に宗像先生の言葉がよぎった。
ずばり、ケセラセラだ。
「先生がそこまでおっしゃるなら……」
「あら? 乗り気になってくれた?」
「取り敢えず、やれるだけのことはやってみます」
「さっすがあ! 私が見込んだだけのことはあるわあ!」
そう叫ぶや否や、先生は勢いよく俺に抱き着いてきた。
これでは俺は、地声の低さよりも先に呼吸器の圧迫によって命を落としてしまう。
「やっぱり私の目に狂いはなかった――ってあれ? 茂樹くん? 茂樹くーん?」
※
一時的な呼吸困難と鼻血の噴出からなんとか脱出した俺は、一階の一年生教室の廊下に戻っていた。今日も健気に飴配りをしているであろう、瑠衣を援護するためだ。
日差しは穏やかで、いかにも春爛漫といった風情。俺は自分の両頬を平手で叩き、気合いを入れた。
「よし……」
「あっ、茂樹くん!」
すると、俺が瑠衣を見つけるよりも早く、瑠衣は俺の下に駆け寄ってきた。とてとてと小走りでやって来る小柄な姿に、一瞬釘付けになる。
「さっき谷ヶ崎先生先生から連絡もらったよ、茂樹くんが助けに来てくれるって! 私、信じてたんだからね!」
「お、おう」
そんな、どこぞの特撮ヒーローに向けるような言葉をかけられるとは。
ちなみに、今の瑠衣が手にしているのは俺のと同じビラだ。男子急募の四文字が殊更に強調された再利用紙。
飴を入れた容器は近くの窓際に置かれ、そこにもでかでかと、合唱部来たれ! の文字がある。
俺がそれを確認した、まさにその時だった。
がしゃん、と音がして容器が落ちた。否、叩き落とされた。
はっとして目を上げると、どう見ても一年生には見えない女子生徒が三人、鞄を振り回しながら廊下を闊歩していた。それが飴の容器に当たったらしい。
偶然? いや、そんなはずがない。その証拠に、茶髪のリーダー格と思しき女子は、振り返りざまにこちらにガンを飛ばしてきた。
それから残り二人に合流し、下卑た笑い声を上げている。
「あっ、飴が……」
そう言って、廊下に散らばった飴を回収しに向かう瑠衣。
だが、彼女よりも素早くその場に向かう人物がいた。
俺だ。
きっと瑠衣だって、わざと勧誘の邪魔をされたことは分かっている。
しかし、そこに生まれた人の悪意を、見て見ぬふりをしてかわそうとしているのだ。
それは分かる。だが、許せるかどうかは別問題だ。
瑠衣はもう立派な合唱部員だが、俺はまだ人前で喋ることすら躊躇するような軟弱者。
俺がこのトラブルを治めるしかあるまい。あの女子生徒たちに、瑠衣に謝らせるという手段で。
シューズの音をわざと立てながら、件の三人組――容器を叩き落としたリーダー格の女子生徒に向かう。
そして、勢いよくその肩を掴んだ。
「すみません、先輩。あなた今、他人に謝るべきことをしましたよね?」
びくり、と肩を上下させ、慌てて振り返る女子生徒。馬鹿笑いしていたせいで俺のシューズの音が聞こえなかったのか。
「あなたはあの子の――愛川瑠衣の頑張りを踏みにじろうとしたんです。謝ってください」
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