第7話


         ※


 翌日。

 放課後になり、俺が溜息をつきながら三年十組のドアを開けた、その時だった。

 ゾンビが視界に飛び込んできた。机と椅子は教室後方に引き下げられ、開けたスペースで三体のゾンビが身体を揺らしている。正確には腰から上半身をぶら提げ、その上半身を波打たせている。


 俺は悲鳴を上げることもできず、口をまん丸に開いてその光景に見入っていた。


「はい、じゃあ息を吐きながら、上半身を戻しましょう」


 潤子の声と共に、ゆっくりと背中を伸ばしていくゾンビたち。そうして見えてきたのは、潤子本人と朔実、それに瑠衣の顔だった。

 しかし、一早く俺の存在に気づいたのは、この三人ではなく残るもう一人だった。


「おー、少年くんじゃないかあー。どったの?」

「み、美幸先輩……。どったの? じゃないですよ! なんで皆ゾンビになってるんですか!」


 相変わらず脱力して、余った机に突っ伏していた美幸が顔を上げる。自分はゾンビにならなくていいのだろうか?


「あら、こんにちは。ちょうどいいところに来てくださったわね、茂樹くん」

「あ、お疲れ様です、潤子先輩。それで皆さん、今何をしていたんですか?」

「体操よ」

「へ?」


 よっぽど俺が妙な顔をしていたのか、今度は朔実が声をかけてきた。


「背骨を揺らして全身の筋肉を柔らかくするんだよ。見りゃ分かんだろ?」


 いや、分からねえよ。

 というツッコミを入れる代わりに、俺は素直に思ったことを口にした。


「俺はてっきり、皆さんゾンビになっちゃったのかと思いましたよ」

「はぁ? なにわけ分かんねえこと言ってんだよ?」

「流石にゾンビにはならないわねえ」

「……」


 朔実、潤子がそれぞれ言い返してくる。瑠衣は恥ずかしかったのか、俯いて黙り込んでいた。


「そうだわ! 茂樹くんもやってみない? この体操」

「え?」


 あの不気味な動きを俺が? いや、ここにいるのは、この体操をずっとやってきた経験者だけだ。ドン引きされる恐れはあるまい。


「じゃあ、早速教えてもらいます」

「荷物はあっちね。学ランは脱いだほうがいいかも」

「分かりました」


         ※


 当然と言えば当然だが、この体操――通称『波打ち体操』は難しかった。

 体操云々の前に、脱力というものが難しい。


 確かに茶道でも、余計な力はいらない、と宗像先生から常に教わってきた。

 しかし、肩先を使う茶道と違い、合唱は全身運動だ。そこで全身を脱力させるわけだが、重力に筋肉を任せるというのが予想以上に上手くいかない。


「まだ背中の真ん中あたりに力が入っているわね。ゆっくり息を吐いて、重心を下ろして。そうそう」

「あの、潤子先輩」

「何かしら?」

「美幸先輩は参加しないんですか?」

「あー……、そうね、えっと……」


 俺と潤子は並んで美幸を見つめた。完全に突っ伏し、寝息を立てている。


「放っておきましょうぜ、潤子先輩」


 憚りなく声を上げたのは朔実だ。


「やる気のない人に関わっていられるほど、あたいら暇じゃないっしょ? 定演の日取りも決まりそうだっていうのに」

「ちょ、ちょっと朔実先輩……!」


 控えめに瑠衣が朔実を引き留めようとするが、朔実は美幸を睨みつけ、譲ろうという態度を見せない。


「そうねえ……」


 屋内シューズの爪先をぱたぱた鳴らしながら、潤子は腕を組んだ。


「ねえ美幸ちゃん、聞いてる?」

「……聞いてなーい」


 駄目だこりゃ。

 俺は頭を抱えそうになって、ふと違和感を覚えた。

 

 潤子は皆には必ず『くん』か『さん』付けで接していたはずだ。ところが美幸に対しては『ちゃん』付け。これはどういうわけだろう?

 次に口を開いたのは、件の潤子だった。


「皆、わたくしから提案があります。今日の練習と勧誘活動はここまでにして、場所を移そうと思います。駅前のドトールコーヒーなどいかがでしょう?」


 皆異議がないのか、沈黙を保っている。聞こえてくるのは、美幸のかすかな寝息だけだ。


「じゃあ、この部屋の片づけと施錠は美幸ちゃんに任せましょう。では、忘れ物のないように」


 あとを美幸一人に任せて大丈夫だろうか? 一抹の不安はあったものの、自分自身が置いてきぼりを喰らうのも勘弁願いたい。

 結局俺は、多数の意見に従って三年十組を後にすることにした。


         ※


「わたくしと美幸ちゃんは、中学校時代からの親友なの」


 席に着くなり潤子は語り出した。カフェオレを載せたトレイをそっとテーブルに置く。俺はアイスコーヒーで、瑠衣と朔実はそれぞれフルーツジュースのストローを口にしていた。


「当時からあの子はあんな感じだったわ。恨まれるようなことはしないけど、かといって協力的でもない。虐められるようなことはなかったけど、歓迎される理由もない。そんな中学生」

「え? でも待ってください」


 俺は割り込んだ。


「合唱って、皆で協力しないと完成させられないでしょう? それなのに協力的じゃないって言われたら、致命的じゃないですか?」


 自分たちにとっても、美幸自身にとっても。


「茂樹くんの言う通りだわ。でも、霞坂高校は、何かしら部活動とか委員会活動をやらなくちゃいけない。わたくしも美幸ちゃんも市立南中学校だったのだけれど、そこからこの高校に進学する子は少なくてね」

「それで、潤子先輩にくっついて合唱部に入った……?」

「そう。そういうこと」


 ようやく自分のカフェオレを口にする潤子。


「まあ、流石にどこのコミュニティにも所属していない、っていうレッテルを貼られるのは気が引けたんでしょうね、美幸ちゃんも」

「はぁ? んなもん美幸先輩のエゴじゃないっすか!」

「そう言えなくもないわね、朔実さん。でも、わたくしは美幸ちゃんを責めはしないわ。お父様はアメリカ人でお母様は日本人。生まれも育ちも日本だけど、教育環境は日本のそれとは大きく違ったはず。だから、未だに日本や日本人というものに慣れきれずにいるのかもしれない」


 荒っぽい溜息をつく朔実。確かに、幼少期の周囲の環境は一生を左右する、って言うしなあ。美幸も意外と苦労人なのかもしれない。


 その後、俺たちはこの話題を切り上げ、雑談に興じることになった。

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