第6話【第二章】

【第二章】


 その日の夜。午後七時を回った頃のこと。

 俺は喉や腹筋ではなく、手先の神経に意識を集中していた。目の前には、半円を描くように五つの小振りなお茶碗が並んでいる。


 右手で水注(水差しのような陶器)の把手を握り込み、ゆっくりとお茶碗一つずつに水を注いでいく。


 今注いだのは、飽くまでお茶碗を清めるための水。すぐに研推(使った水を一時的に捨て置く陶器)に流し込んでいく。


 俺が今何をやっているのかというと、ずばり茶道のお手前である。小学校高学年から始めた趣味であり、精神安定に寄与してくれる貴重な行いだ。

 元々は母が習っているのを見て、自分もやりたいと言いだしたのがきっかけ。


 今週は、本当は明日来る予定だったのだが、先生に連絡して一日早くずらしてもらった。

 昨日今日と、いろんなことがありすぎた。自らの心をチューニングする必要がある。


 茶道を日本の文化として重要視している方々には恐縮だが、俺は茶道を、お稽古事や伝統芸能の類だと認識したことは一切ない。

 何故なら既に述べたように、この教室、このお手前は、俺にとっては精神安定剤のようなものだからだ。


 気楽に楽しめる余地がなければ、俺は少なくともこの先生――宗像綾子先生の下に通いはしなかったはず。八年以上もの長期にわたって。


「はい、そうですね。そこで急須にお茶の葉を入れます。湯冷ましにお湯を注いでおくのを忘れないように」

「はい」


 俺の感覚としては、こうしたルーティンワークを手先で行うのが性に合っているらしい。だから、変に伝統だ、文化だと言い張られては困ってしまう。


 まあその点、宗像先生は大らかな方だから、全く心配はいらないのだけれど。世間話をするためだけに来ているおば様方もいらっしゃることだし。


 俺がお手前を終えて和室を見回すと、先生と俺以外に誰もいないことが分かった。

 好都合だ。宗像先生に相談に乗ってもらうことにしよう。


「あの、先生」

「はい、今日のお茶受けのお菓子」

「わあ、どら焼きですね! ありがとうございます! ってすみません、お菓子の催促をしたわけじゃなくて」

「あら、何か相談事? 学校で何かあったの?」

「あ、はい」


 このあたりの察しのよさは、流石としか言いようがない。

 俺は脳内を整理しながら、ゆっくりと事の始まりから現在地点までのことを話した。


 合唱部に入ろうと思っていること。

 部員が少ないこと。

 それを同級生の女の子――瑠衣が不安がっていること。


「と、いうわけなんですけど」

「ふうん」


 先生は一息ついてから、思いがけない言葉を投げかけた。


「若いわね」

「は?」

「その女の子、瑠衣ちゃんだけれど、これは彼女にとっての試練なんじゃないかしら。もしかしたら、それをサポートする、という意味ではあなたにとってもね」

「い、いや、試練って言われても、打開策が見つからないんじゃどうしようもないですよ……」

「それを探すことも含めて、試練なのよ」


 宗像先生曰く、神様は乗り越えられない試練は与えない、のだそうだ。

 これは俺も聞いたことのある言葉だし、説得力もないわけじゃないが……。


 いや待てよ。

 そうやって試練を試練と認識しないことこそが、本当の意味での試練から逃げている証拠ではあるまいか?

 

 それにそもそも、俺は合唱をするということに、いい意味での引っ掛かりを覚えつつある。楽しいのだ。


「先生、なんとなく分かってきた気がします。自分が楽しいと思えることが目の前にあるなら、最善を尽くしてその楽しみを守るべきなんじゃないかと」

「それは考えすぎじゃないかしらね、茂樹くん」


 あれ? 助言を受け止め損ねた? おかしいな、我ながら納得のいく展開だと思ったのだが。


「世の中なるようになる、なるようにしかならない。ケセラセラだよ。あんまり肩肘張らずに、のんびりおやりなさいな」

「はあ」


 やはり一筋縄ではいかないな。この事案も、宗像先生も。


         ※


「ただいまー」

「あら、おかえりなさい、茂樹。今日は肉じゃがよ」

「んー」


 自宅の玄関で母の出迎えを受けた俺は、しかし上の空だった。

 どう考えたらいいのだろう? 楽しみは守りたい、けれど物事はなるようにしかならない。だから肩の力を抜け。


「分っかんないなあ……」

「え?」


 ふと目を上げると、母と目が合った。


「茂樹、あなた、肉じゃがって何なのか分からなくなっちゃったの!? あたしがお父さんのハートを射止めた、絶品肉じゃがなのに! 茂樹だって好きでしょう!?」

「面倒な勘違いしないでよ、母さん。肉じゃがはありがたくいただきます。けど、やっぱり宗像先生のおっしゃることは難しいよ」

「あらあら。自分から予定をずらすようにお願いしておいて、随分な言い方ですこと」


 いやまあ、母さんの言う通りなんだけどさ。


「取り敢えず着替えてくるよ。聡美は部活?」

「ええ。今日もちょっと遅くなるみたい。その間に、じゃがいもにしっかり味をしみこませておかなくちゃね」


 それだけ言うと、母はキッチンへと引っ込んだ。

 ええい、宗像先生のお題をすぐさま解くのは困難だ。今は、今日の授業で出された宿題に取り掛かるとしよう。


         ※


「ごちそうさまでした」


 親子四人で両手を合わせ、頭を下げる。これは我らが春山家の美徳の一つだ。

 自分の部屋に向かおうとする聡美を、俺は階段下で引き留めた。


「なあ聡美、ちょっと相談、いいか?」

「え? いいけど、兄貴があたしに相談? 珍しいこともあるもんだね」

「まあ、ちょっと部活のことでな」

「分かった。あたしは部屋で待ってる。何か飲み物持ってきて」

「了解だ」


 身内として言うのもなんだが、頼りがいのある妹である。

 

 お盆片手にそっとドアノブを捻り、聡美の部屋に入る。俺の部屋同様に、余計なもののない整った部屋だ。強いて女の子らしいものがあるとすれば、ベッドに置かれたイルカを模した抱き枕くらいだろうか。


 俺は部屋中央に置かれたテーブルに腰を下ろした。反対側にはキャビネットがあり、同世代の生徒たちの写真が立てられている。きっとよさこい踊りのチームメイトだろう。


「部活をやっていれば、こういう友達ができるのか……」


 俺は思わず溜息をついていた。聡美の方がよっぽど世渡りの素養があるじゃないか。


「で、何なの、相談って?」

「ああ、そうだそうだ。部活って楽しいか?」

「え? そりゃあ、まあね。楽しくなかったら誰もやらないよ」


 聡美は自分のカルピスに口をつけ、当たり前じゃん、と付け足した。


「だよな……。じゃあ、一人で踊れって言われたら、お前はどうする?」

「一人? それ、練習じゃなくて本番で?」

「うん」

「そりゃあ緊張するだろうけど……。最善を尽くすしかないんじゃない? そのために練習があるんだし」


 きっぱりと言い切る聡美。


「そういうものなのか、部活って?」

「っていうかさ、兄貴がずっと部活をやらなかったのもどうかと思うよ? それで突然、何の経験もない合唱に手を出そうって言うんでしょ? そりゃあ、プレッシャーを感じて当然だよ」


 ふむ。だったら――。


「どうすればプレッシャーを跳ね除けられる? どうやったら一人っていう状況に打ち勝てる?」

「練習あるべし! それしかない! あとは、場数を踏むことかな。いきなりソロパートじゃなくてもいいから、人前で歌う機会を作ってみなよ」

「……分かった。夜分に悪かったな、聡美」

「あ、もういいの? 兄貴も頑張ってよ」

「おう」


 俺は自分のオレンジジュースを一気飲みし、聡美に礼を述べて立ち上がった。

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