第5話
※
俺が谷ヶ崎先生に通されたのは、三年十組に比べると随分手狭な部屋だった。
それはそうだ。部屋の中央に、ででん、とグランドピアノが置かれていたのだから。ちなみに出入口はもう一つあって、その向こうからは吹奏楽部がチューニングする音が聞こえてくる。
小・中学校の授業を除いて、ほぼ音楽経験のなかった俺。そんな人間からすると、ピアノを挟んで先生と対峙するという状況はなかなかに緊張感あふれるものだ。
「えーっと! じゃあねぇ……」
ピアノの向こう側の椅子に腰かけ、鍵盤に手を載せる先生。
「ちょっと弾いてみるからそれに合わせて声を出してみて。気負う必要ないからね」
「え? 声を出す、って……」
「ああ、そうね。取り敢えず、ド・レ・ミ・レ・ド、で行ってみましょうか。好きなタイミングで始めていいわよ」
「わ、分かりました」
俺はその場で屈伸して、空咳を数回。どうやら俺が歌うべき音階は、階段状に上がって下がるという短いサイクルのようだ。
「それじゃ、ド・レ・ミ・レ・ドで弾いてみるわね」
「よろしくお願いします!」
俺がお辞儀をすると、微かに先生が笑みを浮かべたような気がした。途端にピアノが、俺に先んじて歌いだす。
「ドーレーミーレードー。さん、はい!」
「えっと、ドドッ、レ、レミ? レ、ド~」
「大丈夫よ~、もう一回! 先生と一緒に! さん、はい!」
演奏を止めることなく、大らかに語る先生。その声に促されるように、俺は息を喉に通し始めた。
「ド、レ、ミ、レ、ド~」
「そうそう! 上手いじゃない! その調子!」
俺は同じ音階を数回、喉から絞り出した。
「苦しくなったら休憩してもいいからね~」
頷いて了解の意を示し、俺は一つ深呼吸。
それから同じ幅の音階で、上がったり下がったりしながら、俺はしばらく発声練習を続けた。
「はい! そこまで!」
「ドーレー……あっ、はい」
「うんうん、いい感じじゃない! 見込みがあるわね」
「きょ、恐縮です……」
正直、自分でもここまで歌えるとは思っていなかった。爽快感があったし、何より楽しかった。
「さて、あとは皆と一緒に活動しましょうか。今日はお菓子でも食べて、ゆっくりしていって」
「はい、ありがとうございました!」
「よろしい!」
※
「失礼しまーす」
どこか高揚感に浸りながら教室に戻ると、穏やかなアカペラ音楽が流れていた。
いや、穏やか、というのは語弊がある。荘厳とか、威風漂う、とか言ったほうがいいのかもしれない。
音源は教室中央に置かれたラジカセで、朔実と潤子が聞き入っている。机の上にはCDの山が築かれていて、何かの選曲をしている様子だ。
ちなみに美幸は、自慢の金髪をだらん、と垂らしたまま突っ伏している。
「ちょっと、美幸ちゃん! あなたも聞いて! 定期演奏会で歌う曲を選ばなきゃいけないんだから!」
「ほえ……? ワタシ、ニホンゴ、ワカリマセーン」
ふわ、と欠伸をして、再びうずくまる美幸先輩。
すると潤子先輩が立ち上がり、ゆっくりと美幸先輩に歩み寄った。手元にはイヤホンとスマホがある。
何かを察して耳に手を遣る朔実先輩を見習い、俺も耳を塞ぐ。すると巻き起こったのは、まさに美幸先輩のファミリーネームを冠した男、フレディ・マーキュリーの絶唱だった。
俺には一発で、これが『The Show Must Go On』だと察せられた。
俺や朔実が被った被害は軽微だ。
が、イヤホンを耳に突っ込まれ、これを零距離で耳孔に叩き込まれた美幸先輩はどうか?
「うぎゃああああああ!?」
「はあ、やっと起きたわね、美幸ちゃん」
「ちょっと潤子ぉ! あたしの耳を潰す気!?」
「あなたがこのまま戦力外で部が立ち行かなくなるよりは、被害は小さいと思いますわ」
ひ、ひでぇ……。
「さあ、朔実さん。続きを再生してくださいな」
「りょ、了解っす……」
俺同様にドン引きした様子の朔実が、ゆっくりとラジカセに近寄って再生ボタンに手を伸ばす。
美幸先輩が起きたのはいいが、耳が麻痺して聞こえなければ本末転倒な気もするのだが……。
しかし、その直前に教室に入ってきた人物がいた。瑠衣だ。昨日と同じく、飴の入った容器を手にしている。
「おう、瑠衣じゃんか! どうだい? 今日も大漁か? えぇ?」
「ちょっ、朔実先輩! なに酔っ払いみたいな絡みしてるんですか!」
「今日はおいらの奢りだ、飲んで食え! ま、ここにある菓子代と飲み物代は部費で落とすけどな!」
「わけ分かんないこと言ってないで、今何をしてたのか説明して差し上げなさいな。定期演奏会での選曲を――って、瑠衣、さん?」
潤子が心配げに瑠衣に声をかける。危うく俺は、瑠衣がしょぼん、としていることに気づかずにいるところだった。
そのくらい瑠衣が、自分を普段通りに見せようとしていたからかもしれないが。
「おうおう瑠衣、どったの? 有望な獲物が引っかかったら、すぐにあたいにメールを――」
「ごめん、なさい」
瑠衣は小声でそう呟いた。
できるだけしっかり発声しようとしているのだろう。だが、今のアホなテンションを維持するほど、朔実も鈍感ではなかった。
俺と朔実が顔を見合わせていると、そっと潤子が声をかけた。
「どうかしたの、瑠衣さん?」
「潤子先輩……。やっぱり私、新入生勧誘係は無理です」
その言葉にはっとしたのは俺だ。
「何言ってるのさ、瑠衣さん! 昨日はちゃんと俺を勧誘してくれたじゃないか!」
まあ、大体は朔実の強引さゆえではあったが。
「なんだかだんだん人に話しかけるのが怖くなっちゃって……。元々私、人見知りする方だから……」
ううむ、このおしとやかさを某先輩には見習ってほしいものだ。
そんな目で朔実をジト見していると、潤子がそっと瑠衣の肩に手を遣った。
「ねえ瑠衣さん。定期演奏会――定演では、もっともっと多くの人の前で、自分たちの歌を披露するのよ? あなたは中学校から合唱をやってきたのよね、だったら分かるでしょう? 何も心配することないのよ?」
「それは、私以外にも部員がいたからです! だから独りぼっちじゃないって思えて、ステージにも立てて……。でも高校に入ったら、部員は四人、茂樹くんを含めてもたったの五人です! 私が音を外したらどうなります? 演奏は滅茶苦茶です! 中学時代は三十人規模の合唱部でしたけど、高校じゃたったの五人……。私、怖くて怖くて……」
ううむ、やはり五人というのは、歌を披露するうえで極端に少ない人数のようだ。
しかも、一人でも音程を間違うと大変なことになるらしい。俺は改めて、自分が無謀なことをしようとしているのではないか? と考えざるを得なかった。
すると、潤子がぱちん、と自分の両の掌を打ち合わせ、俺の方に向き直った。
「茂樹くん、確か駅までは瑠衣さんと同じバスなのよね?」
「え? ああ、はい」
「一緒に帰ってあげてくれないかしら。勧誘活動は残りの部員でなんとかするから」
俺は振り返って瑠衣の方を見つめた。拳をぎゅっと握り締め、俯いている。表情は窺えない。だが、誰も手を差し伸べないよりはいいはずだ。
「分かりました。瑠衣さんが迷惑でなければ」
「……大丈夫です」
「よし、じゃあ行こうか、瑠衣さん」
二人で鞄を背負い直すと、唐突にばしん! と肩を叩かれた。
「うわっ!?」
「きっちりエスコート頼むぜ、王子様!」
「なっ、何言ってるんですか朔実先輩!」
こんなに地声の低い王子様などいてたまるか。
「じゃあ、今日はこれで失礼します」
「……失礼します」
「二人共、気をつけてね」
その潤子の言葉に背を押されるようにして、僕たちは三年十組を出た。
※
バスは空いていた。きっと部活動に参加しない生徒と参加する生徒の、それぞれの帰る時間の隙間にあたったのだろう。お陰で俺も、遠慮なく会話をすることができる。
「瑠衣さん、辞めるつもりだったんじゃない?」
単刀直入に斬り込んだ。瑠衣は答えない。鞄をぎゅっと抱き締めて、表情を隠したままだ。
「中学校で合唱をやってたってことは、歌うこと自体は嫌いじゃないんでしょ? ああいや、無理に引き留めようってわけじゃないんだけど――」
「分かってるよ、そんなこと」
ぼそり、と瑠衣は呟いた。
「私は歌うのが好き。皆で歌うのはもっと好き。だけど、仲間が減っていくとすごい不安感に襲われて……。こんなの、卑怯だよね」
「卑怯……? そ、そんなことないよ!」
俺は思わず声を張り上げていた。
「誰だってそうに決まってる! だから皆で歌おう、一緒に歌おうってことで合唱、ってものができたんでしょ? 瑠衣さんは卑怯なんかじゃない! 何なら、俺は一人になっても合唱を続けるよ」
そこまで言って、ようやく瑠衣は顔を上げた。
「本当に?」
「あ、ああ」
いざ涙目で見つめられると……その、なんだ、もう後には退けない、って気持ちになる。
「じゃあ、私は茂樹くんを信じる。一緒に歌ってくれるって」
「おう、もちろんさ」
相変わらずの重低音で、俺はその言葉を引っ張り出した。
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