第3話
うちは普通の二階建ての一軒家だ。家族は俺と両親、それに中学二年の妹。
母の勧めもあって、俺が夕食前に風呂に入っていると、ちょうどダイニングが賑やかになった。父と妹が帰ってきたらしい。
部屋着に着替え、俺もまたダイニングに足を踏み入れた。
「おかえり、父さん、聡美」
「おお、おかえり、茂樹。高校はどうだ?」
「あなた、訊くのは早いわよ。まだ二日しか行ってないんだから」
「それもそうか」
恰幅のいい父は母の言葉に納得した様子で、一足先に、いただきます、と手を合わせた。
「あたしは今日も疲れたよ~。春休み中に続いて部活とかマジ勘弁」
「よさこい踊りはあなたが好きでやってることでしょう、聡美。無理のない程度でいいけど、やれるだけやりなさい」
「はあ~い」
聡美はと言えば、母の言葉にまんざらでもない様子で答えた。父の隣で手を合わせ、いただきます、と告げる。
それから俺と母は、ほぼ同時にテーブルを囲んで腰を下ろした。
いただきます、の二重奏。こうして気楽に声を発することができるのは、家族の間だけだ。
今日の夕食はカレーだった。よし、ちょうど腹が減ってたんだよな。
俺が半分ほど食べ終わると、反対側に座っていた父が、ごちそうさまでした、と軽く頭を下げるところだった。
「お粗末様でした。ちゃんと食器はシンクまで運んでくださいね」
「はいはい、分かってるよ。ところで茂樹、気になる部活動なんかあったか?」
「んぐ!」
俺は慌てて胸を叩き、口内にあったカレーを飲み込んだ。
「父さん、どうしたんだい、急に?」
「いやあ、部活動紹介って今日だろう? 聡美もよさこいを頑張ってるし、茂樹も何か新しいことを始めてみたらいいんじゃないかと思ってな」
「新しい何か……?」
そうねえ、と言って話題に乗っかってきたのは母だ。
「涼介くんのお母さんに言われたけど、茂樹はあんまり友達がいないみたいじゃない? だから、確かに何か部活動に参加するのはいいかもしれないわね」
「何かないのか、茂樹? 運動部でも文化部でも、何でもいいと父さんは思うがなあ」
何でもよくねえよ。人と関わる、というか喋ること自体が苦手なんだから。
だが今日の件の相談相手として、家族というのは適した存在かもしれない。
「あのさ、俺、今日合唱部に勧誘されたんだ」
すると今度こそ、ダイニングは静まり返った。
「……え? あの無口な兄ちゃんが、合唱?」
聡美は珍獣を見る視線を俺に寄越してくる。
ああ、分かっているさ。俺にとって、他人様に声を聞かせるような活動、絶対に不似合いだ。そんなことは、家族なら理解してるよな。
「やっぱ変、だよね……」
そう呟いて、カレーの最後の一口を含んだ時、意外な言葉が耳に飛び込んできた。
「あら、いいじゃない、合唱!」
「は? だって俺――」
「人前で喋るのが苦手だって言うんでしょう? だったらそれを克服するいい機会になるわ! ね、あなた?」
「そいつは名案だ! いいじゃないか、やってみたらどうだ? 合唱」
「父さんまで乗り気にならないでよ。苦手意識があることを、わざわざ高校時代にやることないよ。大学入試だってあるのに」
しかし父はずいっと身を乗り出しながらこう言った。
「それはそれ、これはこれだ。部活はいいぞ、友達も彼女もできる! 父さんと母さんみたいにな!」
「あら、あなた、また子供たちの前でのろける気?」
いや、そういうあんたが一番クネクネしているだろう、母さん。
俺が反応に苦慮していると、聡美も口を挟んできた。しかしその口から発せられたのは、両親の意見とは反対のものだった。
「兄ちゃんの得手不得手に合わせた方がいいと思うなあ、あたしは。ごちそうさま」
「ふーん、聡美って時々ドライよねえ」
聞えよがしに呟く母。話題が逸れたのを見計らって、俺も自室に引っ込むことにした。
※
二階に上がって自室のドアを開け、照明を点けると、何のことはない八畳間が目に入った。
小型のテレビと本棚、反対側にベッド。ドアの向かいにはやや広めの窓がある。
俺は早めに教科書に目を通しておこうと思ったが、どうにも集中できない。
教科を変えても、やはりしゃんとできない。
「……」
音のない溜息。俺の心に引っ掛かっているのは何だ? そりゃあ、合唱部のことだ。
では、合唱部の何が気にかかっている? 入部してみたら自分が変われるかもしれない――そんなところだろうか。ううむ、分からない。
「今日は休もう……」
ふわ、と欠伸をして、俺はパジャマに着替えてベッドに滑り込んだ。
※
翌朝。
昨日の曇天が嘘のように晴れ上がり、穏やかな春の日差しが俺の目に入ってきた。お陰で早めに目が覚めた。バスや電車に乗り遅れる恐れはなさそうだ。
まだ他人のものを借りているような感覚のシャツとズボン、それに学ランを着込み、部屋を出る。両親や聡美と朝の挨拶を交わし、しっかり朝食を摂ってから、俺は通学路に一歩踏み出した。
最寄り駅まで徒歩十分、電車に揺られること十五分。
そこからはバスで十分ほどだ。
「ちょっと早すぎたかな……」
バスの中に制服姿が少ないのを見て、僕はぼそりと呟いた。
最後尾の座席に座り、今日こそはと教科書を開いてみる。鞄から数学のテキストを取り出した、その時だった。
「あの、お隣いいですか?」
突然声をかけられた。まだ空いている席はたくさんあるが、断る理由もない。
俺は声の主の方へ向き直り、軽く頷いて席を空けた。そして、ぎくり、と心臓が鳴動するのを感じた。
僕の隣に腰を下ろしたのは、昨日飴をくれた新入生、愛川瑠衣だった。
バスが発車するまでの僅かな間、瑠衣は俯き、膝の上で手をぎゅっと握り締めていた。
気まずいことこの上ない。瑠衣は間違いなく、俺が合唱部への入部を断ったのを知らされている。それなのに、また俺に接触を試みてきたということは、きっと考え直せと言いたいに違いない。
さて、どうしたものか。
俺の脳内がびりびり鳴り始め、バスが発車する。
僅かに背中が座席に押しつけられる感覚。それと同時に与えられたのは、こんな一言だった。
「ごめんなさい、茂樹くん」
「……え?」
これには俺も呆気に取られた。無理やり勧誘するつもりではなかったのか?
「私、あなたの考えを無視して声をかけて、合唱部に入部させようとして……。ごめんなさい。やっぱり迷惑、でしたよね」
「そ、それは……」
確かに、戸惑いはあった。でも、迷惑だとか、悪意を感じたとか、そんなことはない。だから俺はこう言った。
「敬語じゃなくてもいいよ、愛川さん」
「あっ、そうですか? ……じゃない、そうなの? 茂樹くん」
無言で俺は首肯する。
確か二つ先のバス停から混み始めるんだよな。話すなら今のうちだ。
「昨日も今朝も考えたよ。俺がどうすべきか、いや、どうしたいのか」
「うん」
「先輩たちに連絡しておいてもらえるかい? 春山茂樹は合唱部に入部する、って」
「分かった。じゃあ早速――って、え? ええええええええ!?」
「ちょっ、声が大きいよ、愛川さん!」
立ち上がって叫び声を立てる瑠衣を、なんとかおとなしくさせる。
正直なところ、あまり深い考えがあったわけではない。ただ、色恋沙汰を抜きにしても、瑠衣の真摯な態度に心打たれたのは事実だ。
両親の言葉ではあるが、確かに俺には、自分を変えたい、変えてみたいという思いがあることだし。
俺はそのことを簡潔にまとめ、瑠衣に話した。
「あっ、ありがとう、茂樹くん。私、人に声かけるのって苦手だから……」
「でも最初に飴をくれたのは瑠衣さんだよ?」
「そう、だね」
軽く俯く瑠衣。不覚にも、その嬉しげな、少し寂しげな横顔に、俺はどきりとした。
「じゃあ、放課後に昨日と同じ空き教室に来てね。私、待ってる」
「う、うん」
それから俺たちの間に、会話らしい会話は訪れなかった。
しかし、それはそれで不快ではなかったし、緊張を強いられるものでもなかった。
※
「おはよう、茂樹」
「……」
「茂樹?」
「あ? ああ、おはよう」
正面に立ち塞がる人影を認め、俺は足を止めた。涼介だ。
廊下で俺とすれ違いそうになったらしく、声をかけてくれたのだ。
「なんだか上の空だな。何かいいことあったのかい?」
「はっ、はあっ? ないないないない、なに勘ぐるようなこと言ってるんだよ!」
「ああ、悪い」
やけに素直に非を認める涼介。
「ただ、なんか妙に気になる女の子と歩いてたからさ。早速彼女でもできたのかと思ったよ」
「嫌味かい? 自分がモテるからって」
「そこまで自惚れちゃいないさ」
そう言って、涼介は肩を竦めてみせた。
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