44話-① 白いワンピースの女
黒髪は見るからにしばらく手入れがされていない、べたついてゴワゴワで、かなり癖が強い上に伸び切っているせいで目元だけではなく顔面の鼻先と口以外は隠れているその女は、ただ橋の下で佇んでいる。
口元は強いストレスを受け続けた人間が浮かべる笑みのように病的に捻じ曲げた笑みを習慣づけてしまっているのか、不自然な形状になっている。
今の所、ただ佇んでいるだけで伊上と植志田に敵意や悪意は向けていない。
だが、<今は>だ。
女は内に秘めているものを、彼女の意志で無理やり小さな小箱に押し込めんでいるように感じられる。
伊上の家に現れた、あの不審な男の悪意によく似たモノが、女の中では蠢いている。
女のことを二人は認識してしまっている。女に対する言葉を出せば、それは女が動き出す決定打になるだろう。
伊上は植志田のシャツ袖を二回、グイグイと縦に引っ張り「帰ろ!」と普段の性格からは想像し難い、不自然に明るい声で自転車を置いた場所に動きがやけにガチャガチャとしているロボットのような動きで視線がうまく女から離せない彼を誘導する。
明らかに挙動不審、いや不自然で滑稽な動きだが、恐らく女の力で半が金縛り状態になっていた植志田を無理やり動かしたのだ。
当の植志田は『お、おう』とだけしか言えない。
視線を女に向けた瞬間、彼の自我…意識は強制的に遠のけられていた。
まずい、と思った時には既に自分の意志で身体を動かすことができなくなっており、黒髪の女に視神経から得る情報全てを飲み込まれかけていたのだ。
比較的冷静かつ、幕生との出会いで耐性が付いているらしい伊上が植志田のシャツを引っ張るという行為で刺激を与えたことで、彼の意識ははっきりと身体に戻った。
とっとっと、と小さく躓きかけながら、植志田は伊上に引っ張られるまま付いていく。
まだ、あの女は植志田を『引っ張ろう』としている。
伊上が手を引いているから、引きずり込まれていないだけだ。
「…自転車を置いた場所まで行けば、多分大丈夫だと思うんだけど」
伊上はある程度距離を取ったと判断して、小声で植志田に伝えた。
女は不自然に逃げた伊上たちを追いかけていない。
女が放つ何かは、微動だにしていない。
だが、押し込めている力は徐々に強くなってきているのも確かだ。
今のうちに離れなければ…。
伊上が内心緊張している最中、植志田はその気持ちを察しているのか頑張って付随していた。
――——先にしびれを切らしたのは、女の中に在るナニカの方だった。
「い…n」
伊上の言葉に返事をしようとした植志田の頭が、彼の意志と完全に反して強制的に女の居る後方へ振り向いた。
その時の空気の凍り方は、忘れることはないだろう。
植志田ははっきりと、女が真っ黒になった歯を見せつけるようにニタァ…と口を顔面の三分の一くらいは優に超える大きさに開いて笑ったのを見てしまった。
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