第4話 あの日
俺は離婚したくてたまらなかったけど、彼女がいい人だから言い出せなかった。心が離れて行くと、身体的な接触だけでなく、会話も減って行った。彼女は薄々わかっていたかもしれないけど、俺たちがお互いの関係について話し合うことはなかった。彼女としても、離婚しても子どもだけが残ればよかったのかもしれない。だから、毎月のお勤めは粛々と続けられていたし、俺が浮気してることを実母から聞いていただろうけど、変わらず優しかった。年上だと言う負い目があったからかもしれない。
結局、顕微授精をして、彼女はすぐに妊娠した。やっぱり俺のせいだったんだ。俺は落ち込んだ。子どもができた時の俺の気分は、この人と年を取っていかないといけないんだっていう絶望感だった。結婚して1年くらいしかたっていないのに、彼女の顔には皺が目立つようになってきた。気苦労のせいだろうか。俺は彼女との結婚を本心から後悔していた。俺の相手ではなかったんだ。
彼女は高齢出産のせいだからか、妊娠後に高血圧になってしまった。高齢出産にはリスクが付きまとう。彼女は大事を取って、仕事を休んで出産までは家で過ごすことになった。猫の世話なんかも専門の業者に頼んでいた。
***
あの日、妻は朝から調子が悪いと言っていた。頭痛がするということだったけど、俺は出張があったからそのまま家を出てしまった。俺は普段、熱があっても頭や腹が痛くても仕事に行くのが普通だったから、大したことないと思っていた。ただし、これはコロナ前の話。念のため。
俺は昼頃電話をかけた。妻は電話に出た。
「頭が痛いけど寝てるから大丈夫」
彼女は気丈に答えた。
「早く帰って来てね」
「うん」
珍しく彼女は俺に甘えた。俺は面倒臭かった。その日は、女の子とホテルに行くことになっていたからだ。俺はやっぱり我慢できなくてラブホテルに行ったけど、なるべく早く切り上げた。
「ちょっと、奥さんの具合が悪くて・・・」
俺はその子に謝った。
「妊娠してるんでしょ?ひどいね。奥さんかわいそう」
俺もそれはわかっていた。
「ごめん。・・・今度、埋め合わせするから」
俺が11時くらいにマンションに帰ると、電気が消えていた。きっと、寝てるんだろうと思った。部屋では猫が泣きわめいていたが、俺は猫なんか無視して、すぐにシャワーを浴びて寝室に入った。俺は普段から、飯の時以外はリビングには行かなかった。猫に挨拶してもしょうがない。餌はもらっている筈だし、水さえあれば朝まで大丈夫だ。
寝室は何だか変な匂いがした。病院みたいな匂いだ。しかも、妙に静かだった。俺は電気をつけた。すると、彼女の顔が黄土色に変色していて、口を開けて寝ていた。それは蝋人形のように不自然に固まっているようだった。
俺は怖くなった。死んでるんじゃないか。
近くに行って触ってみると、人体にしては冷たかった。
俺は持っていた携帯で119番に電話した。もう、死んでいると言うと、病院に搬送できないから警察にかけてと言われた。
俺はすっかり気が動転していて、すぐに110番に電話した。その瞬間、俺に閃いたのは、そのマンションが俺の物になるということだった。
それからは慌ただしかった。いきなり亡くなったから、明日すぐにお通夜だったけど、何を準備していいかわからなかった。
葬儀の時、参列した人たちの目が冷たかった。
若く貧乏な夫。結婚してわずか1年しか経っていない。俺が殺したと思われていたようだった。
しかし、解剖の結果、死因がくも膜下出血ということがわかって、俺は悲劇の夫になれた。妊娠中の妻を亡くしてしまったことになる。一気に同情された。それは快感だった。俺を嫌っていた人たちの目が一気に和らぐ。
妻の実家の人たちでさえそうだった。
でも、それは長くは続かなかった。
「
そうだ。俺がラブホテルに行っていなかったら、彼女は助かったかもしれないんだ。その点は、本当に申し訳ないと思っている。
「ちょっと仕事が忙しくて」
「嘘よ!会社に電話して聞いたけど、その日は7時に帰ったって言われたのよ!浮気してたんじゃないの?」
「違います」
「きっとそうよ。じゃあ、誰と一緒だったか言ってみなさいよ」
「男友達です」
「浮気してたのよ!」
母親は泣き崩れた。
***
俺の頭の中は、マンションが自分の物になったという予想外の展開に宝くじに当たったかのような気分になっていた。何という幸運。しかも、また晴れて独身だ。俺の胸は高鳴った。妻のことは愛していた。好きだったし、子どもができたから、離婚も諦めていた。
このマンションにずっと住みたい。でも、そうだ。相続税がかかる・・・。マンションの維持費だってすごい金額だ。特に固定資産税が高かった。俺には払えなかった。
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