第2話 猫の家
俺たちは何度かホテルで会った後、彼女の家に行くことになった。初めてセックスしてから、まだ1ヶ月くらいのことだった。彼女の家は新宿から私鉄に乗って20分くらいかかる所で、さらに駅から10分以上歩くと聞いていた。俺は面倒くさかったが、態度でわかってしまったらしい。彼女は申し訳なさそうに言った。
「ちょっと、会ってもらいたくて・・・猫ちゃんたちと」
彼女は猫好きだったんだが、俺の母も猫を飼っていたし、話を合わせた。
彼女は猫好きが高じて、一人暮らしなのに、猫のために2階建ての一戸建てを借りていた。当時は、ペット飼育可の賃貸が今よりずっと数が少なかったから、結局遠い物件になってしまったそうだ。賃貸物件の借り手がつかない時に、家主が渋々ペット可に踏み切るようなケースが多かったからだ。
「遠くてごめんね。そのうち、マンションに引越したいんだけど、今は貯金したくて・・・」
「大丈夫だよ。俺、運動不足だし、体のためにはもっと歩かないとね」
俺は仕事のカバンを持ちながら、来なければよかったと思っていた。
家に行く前に、女はもう一回「うち、猫いっぱいいるけど大丈夫?」と、尋ねた。
「まあ、大丈夫だと思うよ。母親も猫飼ってるから」
俺は甘かった。
家の玄関を開けると、目の前の廊下にはゲートがあって、猫が出られないようになっていたが、まるで動物園のように猫が何匹も見えた。そして、その扉を開けると、玄関に猫が雪崩のように押し寄せて来た。圧巻だった。
彼女は一人暮らしなのに、何と十匹もの猫を飼っていたのだ。
しかも、雑種の猫ではない。
「高そうな猫ばっかりだね」
田舎育ちの俺はまず猫の値段が気になった。
彼女はかなり稼いでいたから、1匹数十万くらいするだろう。
自分で世話しきれなくて、昼間に家政婦さんを呼んでいるくらい、世話に金をかけていた。
真っ白のペルシャ、シャムネコ、アメリカンショートヘアなど有名どころが次々と女の足元にまとわりついた。ペルシャ猫の目なんか宝石のようで本当にきれいだった。
「みんなすごそうだね」
「うん。みんな血統書付き」
「雑種になったら困るんじゃない?」
「雄は去勢してるから」
「ああ、そう」
どれが雄かわからないが、何だか可哀そうに思えた。
まるで彼女が女王バチで、猫たちは働きアリのように思えた。
女王を喜ばせるために、何の楽しみもなく、死ぬまで側に仕え続けるわけだから。
機嫌を損ねたら待遇に差をつけられてしまうだろうから、愛想を振り撒かないといけない。一生檻から出れない、少し広めの動物園のようだった。彼女の何がそんなに猫を惹きつけるのか。餌?俺もその猫の一匹のような気がして来た。
当然、猫は俺には寄り付かない。俺も猫を無視していた。聞いた話だと、猫におもねって愛想を振り撒くより、無視した方が好かれるらしい。時間が経てば、あちらから興味を持って近付いてくるそうだ。俺に動物が懐いたためしはない。動物好きな人は、「動物に好かれる人に悪い人はいない」なんて言うが、そんなはずはない。俺はそれほど悪い人間でもないのに、なぜか動物が寄り付かない星の下に生まれてしまったんだと思う。
***
女の家は猫仕様にカスタマイズされていた。
賃貸なのに、すべてのドアに猫用の小さな出入り口があった。
だから、猫は24時間好きなように出入りできるということだった。
入れないのは風呂とトイレくらいだった。
彼女はいつもそこに住んでいるから気が付かないのだろうが、入った瞬間から猫臭かった。
俺は着ているスーツにダニや毛がついたら嫌だなと思ったが、彼女は気を利かせて、脱衣室にハンガーと部屋着を置いてくれていた。真新しい上下のスエット。俺のために買ってくれたらしい。後日、彼女の恋愛遍歴についてよくよく聞いてみたら、10年以上彼氏がいなかったということだった。やっぱり、女で会計士なんかになってしまうと、なかなか相手がみつからないらしかった。
でも、こういうのは人による。勝間和代さんは会計士だったけど、学生結婚しているし、キャリアウーマンでも既婚者はいる。
***
俺たちは家に着いてすぐ、2人でシャワーを浴びた。俺が一緒に入ろうよと言ってしまったから。普段から、俺は彼女と一緒の時は、盛り上がっているふりをしていた・・・。
でも、はっきり言って、夕飯を食べてないから空腹だった。
それで、俺は正直にそう言った。もう8時だったから、キッチンで何か食うことにした。彼女は意外と料理もしているそうで、作り置きのおしゃれな総菜なんかがいくつも出て来た。彼女はバケットを切ってくれて、総菜を乗せて食べた。まるでオードブルみたいで美味しいんだけど、全然お腹いっぱいにならない。
食べているとテーブルに猫が乗って来る。
間違って毛も食べてしまいそうだった。
床はフローリングだが、あらゆるところに、毛が落ちている。まるで、猫カフェで飯を食ってるみたいだった。昔、デートで猫カフェに行ったことがあったけど、猫臭くて鼻がつまってしまったもんだ。ドリンクが出たけど、とてもじゃないけど味わえなかった。
「前にも男が来たことある?」
俺は笑いながら尋ねた。
「うん」
「何て言ってた?」
「ちょっと多すぎるんじゃない?って」
「俺も同じこと思った」
「だから独身なのかも」
女は30代後半だった。
「君の場合はそうかもね。だって、独身に見えないし」
彼女は彫りの深い顔立ちで、化粧を落としてもきれいだった。
「化粧してなくても美人だね」
彼女は笑った。美人で頭もいいのに、謙虚でいい人だった。
「猫と男とどっちを取る」
「そんなの選べない」
女は甘えたような声で笑ったが、多分猫だろう。
去勢した雄猫たちの面倒は一生見るべきだ、と俺は思った。
雄猫たちの大事な所はみな、睾丸を抜かれた袋だけになっていて侘しかった。俺はまだ試用期間中。そのうちここに入ったら、何を取られるんだろうか?
俺の母もそうだったけど、女はテーブルに上がって来た猫たちを叱りもせず、嬉しそうにしていた。「この子はね~」といちいち説明していた。
「ペルシャ猫きれいだね」
「うん。これね・・・一番高いの。いくらだと思う?」
「30万くらい?」
「びっくりするかも・・・80万円」
「えー!」俺は呆れた。
「白いペルシャ猫って日本にほとんどいないのよ」
「あ、そうなんだ。去勢しちゃってもったいなくない」
「この子はしてないの・・・貸し出したりもしてるから」
「ずるい」
俺は笑った。大事なところは毛に隠れていて見えなかった。
「猫、何匹いるの?」
「今は10匹。ここで死んだのは5匹いるの。実家でも飼ってるし、今までトータルで50匹くらい飼ったかもしれない。最初は野良猫を飼い始めて、大学の時も飼ってたから」
「よく資格の勉強できたね」
「予備校で勉強してたから」
猫が机に上がって来て、勉強どころではないのではないかと思った。
彼女は酒を飲んで猫のように崩れていった。
俺はしらふ。俺は酒に酔った女があまり好きじゃないけど、彼女は自分がかわいいと思っていそうな気がした。
「猫ってね。死んでからもその辺にいるんだよ。猫って人じゃなくて家につくっていうじゃない。だから、死んでもずっと家にいるの。これ本当なんだよ」
俺は女が舌ったらずの声でしゃべり始めるので、薄気味悪くなった。
「私には見えるの」
「へえ。すごいね」
「普段は霊感ないのに、猫の霊だけはわかるの」
女は俺を見て笑った。
「江田君の膝にも今三毛ちゃんが座ってる。この人誰?って顔して」
俺は何となく膝が痒くなって来た。
「やめろよ。そういうの怖いって」
「大丈夫。その子がね、江田君はいい人だよって教えてくれてるから。私ね、つき合おうか迷ってる人は家に連れて来るの。それで猫にいい人かどうか見てもらうんだ」
先生はそれからしばらく、部屋にいる目に見えない猫の存在について熱く語っていた。
「何か俺、鼻がムズムズして来た。アレルギーかな」
俺は本当に鼻がつまって来た。
「もう一回シャワー浴びる?」
「うん。先生、ティッシュある?」
ティッシュも猫の匂いがした。
俺はもう一度シャワーを浴びて、タクシーを呼んでもらって帰った。
ティッシュを一箱もらって。
俺はお陰様で、その時から猫アレルギーになってしまった。
猫のために借りた猫の家。
でも、彼女が猫の中に混ざっているようにしか見えなかった。
猫は彼女のことをどう思ってただろうか。
独裁者なのか、母なのか。
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