3.魔球

スタジアムにいた誰しもが目を疑った。


バッターボックスに立ったロドリゲスが右手一本でバットを握りバックスクリーンに向けて指し示したのである。


ホームラン予告だ。


これにはスタンドを埋め尽くすヤンキースファンのヴォルテージも最高潮となった。


ウォーーー!


スタジオ全体がざわめき出した。


この日のラジオ解説をしていた名物アナウンサー、チャット マルシアーダも興奮を隠しきれずにマイクに向かって叫んだ。


「ニューヨークっ子のみならずアメリカ全土のヤンキースファンの皆さん。これは驚きました。9回裏2アウト満塁。一打サヨナラという場面で代打アレキザンダー ロドリゲスがカウント3ボール2ストライクからバックスクリーンをバットで指し示してホームラン予告です。2回続けて幻のサヨナラ満塁ホームランという打球を放ったロドリゲス。礼儀正しく相手を挑発しないロドリゲスとしては余り目にしない光景です。私も長年この仕事に携わっていますが、こんな劇的なシーンに遭遇したのは初めてです。ちょっと、おしっこを年甲斐もなくちびってしまいました。皆さん、チャンネルはこのままで。メジャーリーグ史上最もドラマティックなシーンになるかも知れません。どうかチャンネルはこのままで」


スタインバーグはメジャーに入って10年。


マイナーリーグで苦節6年でメジャーに昇格した。


敗戦処理、ワンポイント、中継ぎと徐々に信頼を勝ち得てやっと掴んだクローザーのポジション。


このロドリゲスのワンマンショウはスタインバーグにとってのベースボール人生で最大の屈辱だった。


て、てめえ、そりゃ『メジャーリーグ』のトム ベレンジャーのパクりじゃねえかッ!


畜生、あの野郎、コケにしやがって。


スタインバーグは噛みタバコの唾を何度も吐き捨て苛立ちが最高潮に達する。


これを、察した三塁手のキャプテン、カイル ジャクセンがマウンドに声を掛けに寄る。


「おい、リッキー、そうかっかすんなって。ありゃただのはったりだ。相手の挑発に乗るんじゃねえぞ。落ち着いていきな」


「ああ、分かってるぜ、旦那」


ジャクセンがグローブでスタインバーグの臀部をポンと叩いて戻って行った。


一度大きく深呼吸して人差し指を立てクイクイと動かしマルティネスを呼び寄せた。


そして、グローブで口元を隠し相手チームに読唇で悟られないようにこそこそと言った。


「カッターだ」


マルティネスが夜道で殺人鬼に出会した時のように驚きの表情でスタインバーグを見やった。


「お、お前、それはまだ覚えたてで試行段階じゃないか。まだ物にしてないだろ。それよりも内角低めのストレートで詰まらせて内野ゴロってのが無難じゃないのか?」


スタインバーグは営業成績が上がらずにいつもコケにされていて深酒し酒の力を借り執拗に同僚に絡むサラリーマンのような目付きでマルティネスの目を見据えて言った。


「いいや、カッターだ」


マルティネスはスタインバーグの気魄に押され「解った。お前がそう言うんなら。どう転んでも俺は知らんからな」とだけ言い残しポジションに戻った。


スタインバーグは何を投げてもロドリゲスに弾き返されると思い込んでいた。


カッターは苦肉の策だった。


背水の陣。


虎穴に入らずんば虎児を得ず。


奴を討ち取るには魔球カッターしかない。


この1球で奴を仕留めるんだ。


ロージンバックで念入りに滑り止めをする。


本当はべろで指先を湿らせたいくらいだ。


スタインバーグは大きく深呼吸する。


ランナーのスタートを遅らせる為に一塁と三塁を目で牽制する。


ワインドアップで大きく振りかぶってバネのように体全身を撓らせマルティネスが構えている内角高めに向けて投じた一球。


指先をボールが離れ目一杯引き絞られた弦から放たれた矢のようにキャッチャーミット目掛けて回転を増しながら飛んでいく白球。


ロドリゲスが右足を踏み込みバットの芯でスタインバーグが放った渾身のカッターを捉えにいく。


その時だった。


ロドリゲスの2m手前くらいでボールの縫い目がブチブチブチと裂けいきカッターの刃が二枚突き出てきたのである。


スタジアムのライトに反射し妖艶な光を放つカッターの刃。


尚も回転を増しロドリゲスの手元でホップして内角に切れ込んでくるスタインバーグの渾身のカッター。


迫りくる魔球。


それは正しく悪球と呼ぶに相応しい脅威を以ってして死へのエピローグへとロドリゲスを誘っていく。


身を反らして躱そうとするロドリゲス。


その表情は恐怖に戦いていた。


苦悶に歪むロドリゲスのその表情は『ラストサマー』で鉤爪の男に狙われるジェニファー“ラブ”ヒューイットのようであった。


その白球はグリム リーパーの大鎌のようにロドリゲスの首元に迫り電動ノコギリのようにロドリゲスの大動脈をズタズタに切り裂いていった。


その光景をマウンド上からスタインバーグは凝視しながら自らが放った魔球に畏怖の念を馳せていた。


ロドリゲスの切り裂かれた喉の傷口から血飛沫がコンペディションに出品された新進気鋭のアートデザイナーが創り出した噴水のように飛び散りホームベース、マルティネス、ブラネルを真紅に染め上げていく。


ロドリゲスは仰向けにばたりと倒れた。


そして、癲癇の発作のようにヒクヒクと痙攣し始めた。


スタジアムのスタンドからは悲鳴が地鳴りのように沸き起こる。


子供の両目を掌で隠す父親達。


ポップコーンやホットドッグ、フレンチフライにチキンバー、それにビール、コーラ、フローズンやシェイクといった飲み物までもが宙を舞い床に散乱し観衆はこの惨劇を目に焼き付けた。


レッドソックス、ヤンキースの両陣営、審判にボールボーイ、グラウンドキーパー、売り子のスタッフ、アナウンサー、観衆とスタジアムにいた全ての人が絶句し水を打ったようにスタジアムは静まり返った。


スタインバーグは『メジャーリーグ』のチャーリー シンよろしく!


ヤンキースベンチを指差してこう言った。


「おい、見たか。このヤンキースのウスノロどもめが。これが真の魔球カッターだ。これが真のデッドボールだ。見てみやがれ、ロドリゲスのヤローを。てめえの足で一塁にも歩いて行けやしねえ。これで押し出しが成立するとでも思ってんのか。その足りねえおつむで考えてみな。代走なんて姑息な真似しやがったらてめえらのベンチにも魔球カッターをお見舞いしてやっからな。これでも喰らえ」


そう言い放つとスタインバーグはヤンキースベンチに尻を向け放屁した。


そして、今度は球審のブラネルを指差してまた吠えた。


「おい、おっさん、てめえも分ってんだろうな。てめえもクソみたいなジャッジを下したら其処に寝っ転がってるヤローと同じになっちまうぜ!よーく吟味しなッ、分ったか、おっさんよ」


球審のブラネルは、このスタインバーグの捨て台詞に呑まれ「ゲ、ゲ、ゲ、ゲームセット」と吃りながらコールした。


スタインバーグはサンバガールよろしく!


マウンド上でゆったりとステップを刻み始めいつも自身がセーブを成功させた時に踊るダンスを始めた。


その異様なダンスは悪魔に捧げるダンスのようであった。


チームスタッフが行き来する通路から駆け付けた救急隊員によって担架に乗せられて運び出されるロドリゲスの遺体をニヤニヤしながら見送り意気揚々とダンスを続けるスタインバーグ。


ばいばーい、ロドリゲスのおじちゃーん、あの世で良い夢見なよー。


試合終了後ロッカルームに引き上げる両陣営。


ヤンキースのロッカールームはチームの精神的支柱を失い静まり返っていた。


スタイザーが気丈に選手達の士気を上げようと声を放つ。


「私達はロドリゲスという誇り高き偉大な選手を失ったがまだ航海の途中だ。まだまだワイルドカード争いに食い込めるだけの望みを大いに残している。あの憎きレッドソックスを引きずり下ろして今シーズンはロドリゲスの為にもワールドシリーズチャンピオンになってやろうじゃないか」


ヤンキースのメンバーは涙を浮かべ亡きロドリゲスに思いを馳せていた。


一方のレッドソックスのロッカールームはどんちゃん騒ぎだった。


頼りになるクローザーを皆でもみくちゃにしていた。


ジャクセンがスタインバーグの肩を抱いて行った。


「よお、リッキー、俺はボールからカッターの刃が突き出てきた時には愛人の排卵日に膣内に射精しちまった時のようにビビっちまったぜ。それにしても、すんげえ球を開発したな、リッキー。ピンチの時は魔球カッターで全員あの世送りにしちまって死体の山を築いてくれよ、ハハハ」


「旦那、任せてくれよ。連続殺人鬼リッキー スタインバーグ様の降臨だぜ。ギネスに載るように殺って殺って殺りまくってやるぜ」


ケータリングのフライドチキンとフレンチフライを摘むレッドソックスメンバー。


スタインバーグもフレンチフライを摘みながらルートビールで流し込む。


ロゴサムがロッカールームに入って来ていの一番にスタインバーグに歩み寄る。


「おい、スタインバーグ、あんな隠し玉を持っとるんなら端から使え。わしをヒヤヒヤさせおってからに」


ロゴサムはスタインバーグの胸を拳で突いた。


「済んません、監督、まだ試しの段階だったもんで」


「これで我がレッドソックスも安泰じゃな。史上最高の真の守護神誕生じゃからな」


「ハハ、そうっすね、監督。それよりも監督、前から気になってたんすけど…ほっぺの黒子から長い毛が生えてるっすよ」


「うるさい、これは伸ばしとるんじゃ。チームの連勝が伸びるようにと願掛けしとるんじゃ」


マルティネスがクーラーボックスからバドワイザーの缶を二本持参してスタインバーグの隣にやって来た。


「相棒、祝杯といこうじゃないか。練習中の段階では俺はまだカッターは早いと思ってたんだがな。あんなに上手くいくなんて夢にも思ってなかったぜ」


スタインバーグはマルティネスからバドワイザーの缶を受け取りプルタブを引くと缶と缶を突き合わせた。


ゴクゴクとバドワイザーを流し込み口を開くスタインバーグ。


「マルティネス、実は、もう一つ練習中の奴があんだけど。あんた、ボールの縫い目からフォークが突き出てきてバッターの目ン玉をぶすりってな感じになったらどう思う?」


マルティネスは目を見開いてスタインバーグの肩を抱いた。


「相棒、お前って奴は本当に悪い奴だな」


45分程まるで地区優勝でもしたかのように祝勝を祝い各々がホテルやバー、レストランへと散って行った。


一人ロッカールームに残ったスタインバーグは己が産み出した魔球カッターの余韻に浸っていた。


ロドリゲスの喉をズタズタに切り裂いていく光景が瞼の裏に焼き付いている。


俺はMLBで最高のクローザーとして名を残すんだ。


マリアノ リベラの通算最多セーブ数652セーブ、フランシスコ ロドリゲスのシーズン最多セーブ数62セーブの記録を破るのは俺様だ。


二本目のバドワイザーを飲み干し空き缶をゴミ箱に投げる。


空き缶はバスケットのゴールに吸い込まれるようにコンと音を立てて入った。


やっぱ俺様はコントロールも一流だな。


スタインバーグは己に酔い痴れユニフォームを脱いでシャワールームに入った。


ボディソープをポンプから手に取り体を洗い熱いシャワーを5分間浴びる。


体を温めてから次は冷たい水を3分間浴びる。


温冷交代浴で試合で疲労した筋肉と自律神経をケアする。


シャワールームから出てバスタオルを取ろうとした時だった。


半白のざんばら髪で老斑が浮いた浅黒い肌。


顔は痩せ細っているので目玉が飛び出ているかのようにぎょろっとしている。


ヤンキー スタジアムの清掃員歴45年のチェニー タネルがそこにいた。


薄汚い作業着姿で傴僂で右足をびっこを引きながらモップを掛けている。


右手にも麻痺があるようでタネルは片麻痺のようであった。


恐らく脳梗塞か脳出血、もしくは先天的なものかも知れない。


その姿は職を得た浮浪者といった塩梅であった。


「おや、済まなんだ。悪いとこに出会したもんじゃなあ。それにしても、お前さん、今日はでかい男になりよったなあ。お前さんの息子もお前さん同様ご立派なもんじゃ」


タネルがスタインバーグの逸物を見てにやりと笑って言った。


ケッ、この薄汚い浮浪者のジジイがッ。


スタインバーグはタネルを無視してバスタオルを巻いた。


何食わぬ顔でタネルはモップを掛けていく。


クーラーボックスから三本目のバドワイザーを抜き取り背凭れの無いベンチに座るとプルタブを引き豪快に流し込むスタインバーグ。


何かに取り憑かれたように一心不乱にびっこを引き引きモップ掛けをするタネル。


「フー、お前さん達レッドソックスが来た時は大変じゃわい」


タネルはにやにやしながらスタインバーグを見て半白の前髪を払い手の甲で汗を拭う。


うつせーな、このジジイ。


「お前さん、今日はさぞ気分の良い事じゃろうな」


「ああ、まあな」


スタインバーグが不貞腐れたように言った。


「お前さんはメジャーの歴史に残る名ピッチャーになるのは間違い無しじゃ。是非記念にサインをしてくれんかのう。このメモ帳に今日の日付を入れて」


タネルが薄汚い作業着の胸ポケットからメモ帳を出した。


「チッ、仕方ねえな、ジイサン。何か書くもん持ってっか?」


メモ帳を受け取るスタインバーグ。


「ああ、ああ、有るともさ、此処に。お前さんのサインは後生大事にするよ。わしの家の家宝じゃ」


タネルはズボンのポケットに麻痺が残っていない左手を突っ込み言った。


その瞬間目付きが変わった。


「これはロドリゲスの分じゃ」


そう言ってポケットから慣れた手捌きで飛び出しナイフを取り出しスタインバーグの喉を瞬時に掻っ捌いた。


タネルは腹の底から高笑いしながらベンチから後ろに倒れていくスタインバーグを恍惚の表情で見やった。


「ヒッヒッヒッヒッヒ、おい若いの、わしらヤンキースファンをコケにすると痛い目に遭うってのを解っとらんようじゃな。身の程を弁えろ、このボケナスが」


因果応報。


スタインバーグもロドリゲスのように癲癇の発作のように痙攣しながら事切れた。


タネルはスタインバーグの骸の髪を掴み顔に唾を吐き掛けた。


ボケナス、あの世で良い夢みろよ。


タネルが掴んだ髪を手放すとスタインバーグの頭がゴンと音を立てて床に落ちた。


ロッカールームを後にするタネル。


びっこを引き引き廊下を歩くタネル。


すると、どうであろうか。


傴僂で曲がっていた背中がしゃきっとし普通に歩き出したのである。


先程までびっこを引き引きしていたタネルがスイスイと歩いている。


そして、片麻痺の残っている右手で煙草を取り出しジッポで何不自由なく火を点ける。


まるで片麻痺のジジイじゃないように。


その光景は『ユージュアル サスペクツ』のケヴィン スペイシーのようであった。


そして、タネルはヤンキー スタジアムを出ると迎えに来ていたリムジンの後部座席に乗り込んだ。


カイザー ソゼ?


タネルが何者なのかは誰も知らない…

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魔球 Jack Torrance @John-D

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