2.相性

場内アナウンサーが代打アレキザンダー ロドリゲスをコールした。


そのコールに湧き上がるヤンキー スタジアム。


ロドリゲスは現在42歳。


ヤンキース一筋24年のベテランで過去にホームラン王3回打点王2回を獲得し昨年、一昨年は成績は振るわず今シーズンでの引退を表明していた。


今シーズンは代打専門でベンチに控えていたが、ところがどっこい。


重要な場面で起用され打率3割5分6厘ホームラン12本打点38と大活躍していた。


ロドリゲスはヤンキースの代打の切り札としてだけではなく前キャプテンのフォレスト クルーガーから12年前にキャプテンの座を受け継ぎチームの精神的支柱としてもベンチのムードを高めていた。


今シーズンのロドリゲスの大活躍に引退撤回を願うファンの声も多くロドリゲスのファンレターは引っ切り無しだった。


ロドリゲスはツイッターでの公式声明で「男が一度口にした事だ。二言は無い。私の事をいつも支えてくれるファンに心から謝意を伝えたい。いつもありがとうと…」と引退を撤回しなかった。


ロドリゲスの引退を惜しむファンはチームのヒーローであるロドリゲスの最後の勇姿を目に焼き付けようとヤンキー スタジアムは連日の満員御礼だった。


スタジアムにスライ&ザ・ファミリー・ストーンの“ファン”が流されベンチからロドリゲスがグラウンドに現れる。


この入場テーマ曲は今シーズンだけ使用している曲でファンを大切にするロドリゲスからのメッセージが込められていた。


ネクストバッターズサークルでウォーミングアップの素振りを念入りに済ませグリップに念入りに松脂のスプレーを吹き付けゆっくりと左打席のバッターボックスに向かうロドリゲス。


割れんばかりの地響きとスタンディングオベーションでロドリゲスを迎えるヤンキースファン。


完全にスタインバーグはアウェイムードに包まれていた。


そして、スタインバーグはロドリゲスと対したくない理由があった。


過去のロドリゲスとの対戦成績が30打数20安打。


打率6割6分6厘。


その20安打の内ホームランが13本と打ち込まれ最も苦手にしているバッターだったからである。


バッターボックスに入り念入りにスパイクで足場を馴らすロドリゲス。


噛みタバコの唾を吐き捨てロージンバックを手にするスタインバーグ。


戦闘態勢が整い18,44mの距離を挟んで対峙する二人。


火花を散らし互いの目から視線を外さないスタインバーグとロドリゲス。


キャッチャーのマルティネスのサインは内角高めのストレートだった。


サインに大きく頷きワインドアップで腕を高々と振り被り1球目を投じた。


手元が狂いロドリゲスの顔面すれすれの投球となってしまい仰け反って倒れるロドリゲス。


ヤンキースファンからサムズダウンでブーイングが鳴り止まない。


マルティネスは間一髪で捕球し三塁ランナーのベッカーの生還を許さなかった。


ユニフォームの胸元を摘みフーっと安堵の溜息を漏らすスタインバーグ。


ユニフォームの土を払い何事も無かったようにポーカーフェイスで再度バッターボックスの足場を馴らすロドリゲス。


今のロドリゲスの心境は明鏡止水の如しであった。


邪念を追い払いただ目の前の一球を弾き返す事だけに集中していた。


仕切り直しだ。


スタインバーグとロドリゲスは己にそう言い聞かせ対峙する。


マルティネスのサインは外角低めのスライダー。


これにスタインバーグは首を横に振る。


続くマルティネスのサインは内角高めのストレート。


頷くスタインバーグ。


ワインドアップからまたしても内角高めのストレートを渾身込めて投じるスタインバーグ。


これをロドリゲスは先程の悪球にもまるで動じていないかのように右足をホーム側へ踏み込んで思い切りバットを振り抜いた。


ブンと唸るロドリゲスのスイング音。


バットの上っ面を掠りバックネットを超えるファールボール。


1ボール1ストライク。


カウントをタイに戻し幾分か平静を取り戻すスタインバーグ。


手に汗を握るってのはこういう事だ。


体内に漲るアドレナリン。


これだよ、これ。


こういう修羅場を潜り抜けてこそ真のクローザーって言われるんだよ。


己で己を鼓舞するスタインバーグ。


3球目のマルティネスのサインは外角低めのスライダー。


頷くスタインバーグ。


スタインバーグはロドリゲスのタイミングを外そうと意表を突いてクイックで投じた。


百戦錬磨のロドリゲスはスタインバーグの意表を突く作戦にも動じず大きく右足を踏み込んだ。


しかし、ロドリゲスはボールと判定し見送った。


球審のブラネルはストライクのジェスチャーを大仰なまでに決めた。


並の選手ならば球審の判定に詰め寄るだろう。


だが、ロドリゲスはそうはしない。


ロドリゲスはヤンキースの一員である事を重んじヤンキースの一員たる者紳士であるべきと何の不服もブラネルに申し立てなかった。


仮に不服を申し立てたところで一度球審が下した審判はそうは覆らないという事をロドリゲスは熟知していた。


余程重要なビデオ判定にならない限りはと…


続く4球目のマルティネスのサインは空振り狙いの落差の大きいフォーク。


首を横に振るスタインバーグ。


カウント1ボール2ストライク。


追い込んで後2球はボール球で釣れる。


マルティネスのサインは内角低めのカーブ。


スタインバーグはワインドアップからコースギリギリを狙ったがここはロドリゲスの選球眼が上回った。


ロドリゲスに見送られててブラネルの判定はボール。


カウント2ボール2ストライク。


顎に伝う汗をユニフォームで拭って噛みタバコの唾を吐き捨てる。


ロージンバックを手に取り指を白い粉に塗す。


若干前傾姿勢でマルティネスのサインに目を凝らすスタインバーグ。


5球目のマルティネスのサインは外角高めのストレート。


頷くスタインバーグ。


ワインドアップからコースギリギリを狙ったが指の掛かりが悪くスっぽ抜けてボール。


ロドリゲスは踏み込んでボールを捉えにいく姿勢を取ったが完全なボール球にバットはぴくりとも動かなかった。


スタインバーグとマルティネスのバッテリーはここでロドリゲスを仕留めたかったが思惑通りにはならなかった。


失投に苛立つスタインバーグ。


追い込んでからの2球続けてのボールで3ボール2ストライクのフルカウントになってしまった。


2アウトフルカウントなのでランナーは自動的にスタート。


外野へのヒットでも二塁ランナーが生還してサヨナラだ。


もうボール球で釣る事も出来なくなったスタインバーグ。


ここでマルティネスは伝家の宝刀フォークのサインを出した。


落として空振り三振を狙う策に打って出た。


スタインバーグのフォークはストレートとの緩急は相当ある。


しかも、ストライクゾーンからの落差はフリーフォールのように優に30cmはある。


マルティネスのサインに大きく頷くスタインバーグ。


大きく腕を振り被ってワインドアップから放った6球目のフォークボール。


ところがまたしても指の掛かりが悪くスっぽ抜けてど真ん中へ!


ヤ、ヤバい!


目ン玉をひん剥いて己の失投を悔やむスタインバーグ。


持って行かれる。


スタインバーグ、マルティネスのみならずバックを固めるレッドソックスメンバー達。


いやレッドソックス、ヤンキースの両陣営。


それに、ヤンキー スタジアムに来ている満員の観衆。


誰しもがそう思った。


超ど真ん中。


これを見逃さずに大きく右足を踏み込んでボールを捉えにいくロドリゲス。


渾身の力でバットを振り抜き弾き返すロドリゲス。


スタインバーグが失投を悔やんだようにロドリゲスも己の打撃に疑念を生じた。


し、失敗った。


僅かにバットの芯を外した。


大きく弧を描くようにレフトポールに向かって飛んで行く白球。


ナイトゲームで照明に照らされバッターボックスのロドリゲスからは見辛いボールの行方。


飛距離は十分だ。


頼む、切れないでくれ。


ロドリゲスは神に祈る。


息を呑むヤンキースファン。


サヨナラ満塁ホームランか?


スタンドのファンが固唾を呑んでボールを見守る。


僅かにポールの左を通過し三塁塁審のカート ギャバナーがファールのジェスチャーを示す。


ロドリゲスの神への祈りは通じず特大のファールとなった。


嗚呼。


淡い落胆の声を漏らすヤンキースファン。


ど真ん中へのスタインバーグの失投を仕留めきれなかったロドリゲスは自身への怒りを下唇を噛んで必死に堪える。


ロドリゲスはジェントルマンだ。


怒りを抑制しバットを折ったりグラウンドに投げつけたりはしない。


グローブだってそうだ。


アスリートは道具があってこそなんぼの職業だ。


日本とアメリカの二重国籍を持っている某女子テニスプレイヤーのように試合中にラケットを破壊したりはしない。


そんな事をしたら己だけではなく国の恥だとロドリゲスは常々考えていた。


バットやグローブを作ってくれている職人への裏切りだとロドリゲスは人への愛も欠かさないイエスの生まれ変わりのような人格者だった。


一流トップアスリートがアンガーマネージメントも出来ずに何が一流だと言えるんだろう。


ロドリゲスは人でありながら、その卓越した精神は既に雲の上の人、その人であった。


レフトポールへのロドリゲスの一撃を見送りながらファールになってくれた事を神に感謝し胸を撫で下ろすスタインバーグ。


ベースボールキャップを脱帽し額の汗を拭い大きく深呼吸する。


ボールボーイが球審のブラネルにボールを補充しに走る。


ロドリゲスはネクストバッターズサークルで次の打者のミッキー クロイツから松脂スプレーを借りバットのグリップに噴射しゆっくりとバッターボックスに戻って行く。


幻となったサヨナラ満塁ホームランの余韻がスタジアムに漂う。


ロドリゲスはバッターボックスに入るとスパイクにこびり付いた土をバットの先端でコンコンと叩いて落としまたいつものルーティーンでバットを構えた。


2球続けてのフォークか?


だが、スタインバーグは球数も今日は多くなり握力も落ちてきている。


2球続けて球がすっぽ抜けてるのがその証拠だ。


タイミングもさっきの打席はどんぴしゃだった。


内角は怖い。


今度は引っ張られてライトポールってパターンは大いにあるからな。


マルティネスの脳内は書き入れ時の定食屋の親父のように目まぐるしく回転していた。


迷った挙句続く7球目のマルティネスのサインは外角低めのスライダーだった。


頷くスタインバーグ。


これで内野ゴロか空振り三振だ。


スタインバーグはワインドアップから渾身の力をこの1球に込めてマルティネスのミット目掛けて放り込んだ。


右足を大きく踏み込みそのボールを捕まえにいくロドリゲス。


ボールはバットの先端に当たった。


打ち取った。


スタインバーグは確信した。


しかし、然うは問屋が卸さなかった。


ロドリゲスはアッパースイングで押し込んだ左手のグリップの手首を上手く畳みながら絶妙なバットコントロールを見せた。


バットから弾き返されたボールは、またしてもレフトポールすれすれに飛球して行く。


先程よりは飛距離は弱いが辛うじてスタンドインするくらいはありそうだ。


レフトを守っていたコリン レノンは一応ボールを追いかけて行った。


後はボールが切れるか切れないか。


レノンはポールすれすれでボールから目を離さなかったのでボールがポールの内側か外側かと判別出来ずにジャンプして捕球しようとした。


ボールはスパローが掲げたグローブの僅か5cm上を通過してスタンドインした。


三塁塁審のギャバナーがホームランのジェスチャーを示し右手を頭上に翳しクルクルと回した。


サヨナラ満塁ホームラン!


がっくりと頭を垂れるスタインバーグ。


ロドリゲスが対戦したピッチャーへの敬意を示す為に表情を崩さずに淡々とベースランニングする。


レッドソックスベンチからロゴサムが物凄い剣幕で球審のブラネルにビデオ判定を要求した。


これに応じるブラネル。


ロドリゲスはベースを一周し試合は一旦ビデオ判定に移った。


ブラネル、ギャバナー、それと一塁塁審ジム スタンリーと二塁塁審イアン ホフマンと四人でビデオの映像を確認する。


判定に要した時間は8分。


ブラネルがマイクを持ってグラウンドに現れた。


スタジアムの全ての観衆が固唾を呑む。


「先程のアレキザンダー ロドリゲス選手の左翼飛球でレフトポールすれすれのホームランについてのご説明をします。三塁塁審ギャバナーはホームランと判定しましたがレッドソックス監督ケヴィン ロゴサム氏からの要請でビデオ判定を致しました。ロドリゲス選手の飛球は僅かにレフトポールの左を通過していました。なので先程のホームランは誤審となり2アウト満塁カウント3ボール2ストライクのロドリゲス選手の打席から再開したいと思います」


ロドリゲスのホームランと誤審されたボールは僅か5cm左を通過していた。


バックスクリーンの大型モニターに先程のレフトポールへの打球のシーンとスパローの捕球のシーンがリプレイされる。


わずか5cmでポールの左側を通過しまたしてもファールとなったロドリゲスの幻のサヨナラ満塁ホームラン。


嗚呼。


スタジアムの8割くらいを占拠しているヤンキースファンはまたも落胆の溜息を漏らした。


一方、2割くらいのレッドソックスファンは息を吹き返した。


2打席連続であわよくばホームランといったスタジアムを絶頂のヴォルテージの渦に巻き込んでいる主役のロドリゲス。


左翼から右翼へ風がふいていれば間違いなくホームランだっただろう。


天を仰いで残念がるロドリゲス。


助かったのはスタインバーグ。


フー、命拾いしたぜ。


やはりロドリゲスとの相性の悪さを改めて痛感する。


ここまで打者7人と対戦してスタインバーグは一度もキャッチャーのマルティネスをマウンドに呼ぶ事は無かった。


クローザーが弱気を見せているとはチームメイトに想わせたくないというスタインバーグの思惑がそうさせていた。


マルティネスもそれを承知していた。


スタインバーグの激し易い性格を考慮し至らぬ助言は火に油を注いでいるようなものだと…


なのでマルティネスからマウンドに向かう事は一度も無かった。


マルティネスがスタインバーグに呼ばれる事も1シーズンに二度か三度くらいの事であった。


ロドリゲスはネクストバッターズサークルで4,5回素振りをしてバッターボックスに向かう。


ロドリゲスがヘルメットを脱ぎ二の腕の袖で額の汗を拭った。


トレードマークのポマードで固められたオールバックも汗で少しずつ乱れてきている。


二度の幻のホームランなどは無かったかのようにポーカーフェイスでヘルメットを被りバッターボックスに立ったロドリゲスは意外な行動に出た。

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