第4話 病災
膝下まで上がった水面下を泳ぐ魔物の影が過ぎ去る。
「いでえええっ」
再び足の肉を削がれたゴブリンの悲鳴が上がる。
不自然に水面が揺れて、ピラニアのような魚が口を開いてゴブリン達に飛びかかるのを見た瞬間に、カチリと俺の肉体は戦闘モードに切り替わる。
緩く握った裏拳を、水面に叩きつけて飛沫を上げて、その勢いでピラニアの軌道をずらし、それが水の中に逃げる前に、拳で弾いて壁に叩きつける。
ピラニアは地面に叩きつけたトマトのように血を撒き散らしながら絶命する。
「っすまねぇ、助かった!」
「あぁ」
やがて、水の中に魔物が紛れ込んでいるという情報が砦全体に広まり、ゴブリン達はバケツの代わりに剣や槍を持って浸水していない階まで上がる。
やはり、塩水の雨が降るのは尋常な現象では無いらしく、集まっているゴブリン達は浮き足立っている。
この塩水の雨が、河川や山から来たものならば問題は無い。
しかし、もしも海から来たものならば、既にここより先の砦は全て沈んでいる、ということになる。
キッチリと軍服に身を包んだゴブリンが、食堂のテーブルの上に立つ。この砦の指揮官だろうそのゴブリンは鋭い視線を巡らして、ゴブリンの注目が集まるのを待つと、強い調子で指示を下す。
「海中に潜む魔物共を一掃する!
その他の兵士には彼らの護衛か、引き続き水の排出を命令した。
俺は
俺は階段を上り、普段は兵士が哨戒している屋上に初めて上がった。
5階建のマンションぐらいの高さはある。
「これは……」
水と格闘している間は気付かなかったが、高い視界から見渡すことで現状の悪さを認識した。
洪水、とも違う。
まるで海水面が上昇した世界に迷い込んだような気分だ。
荒れ狂った海のように高い波が森の木々を根こそきひっくり返す。
視界全てに水が広がり、遠くは濃い雨が降りカーテンのようにその先を覆い隠していた。
まさか、海蛇の視界にモヤをかけるだけとは思えないが、彼らの術が強力とは思えない。
俺は若干の不安を覚えながら、彼らが横に一直線に並ぶ背後で護衛として待機する。
総勢100人近く。
彼らの中には俺に呪術をかけた、胡散臭いゴブリンの姿もあった。
「畜生共に恐怖を刻まん」
「かまええぇ!!」
太鼓が鳴り、彼らから一斉に禍々しい魔力の気配が噴き出す。
腹に響く重低音が、リズムを刻む。
禍々しい気配が最高潮に達した時、再び号令が響く。
「放てえええ!!」
号令と共に、ゴブリン達の魔力は束ねられ、一つの呪術を成した。
『
そう呟く、兵士達の声が重なって聞こえた。
効果は直ぐに現れた。
砦の下に広がる浅い海に赤い点々が浮かび上がる。
次に脱力した魚の魔物の体がゆっくりと浮かび上がる。
直ぐには死ななかったものも、身体中から血液を噴き出しながらのたうち回り、最後には頭から砦の壁に突進して自ら命を絶つ。
どれほどの苦痛が彼らに与えられているか、想像するしか無いが少なくとも死の方が楽だと感じるほどに強烈なものだろう。
異常気象の後にこんな風に海上に浮かび上がる大量の魚の死骸をニュースで見た。
まさに災い、としか表現しようが無い。
呪術らしい呪術の行使に俺は僅かに恐怖を覚えた。
同時にこの力が味方にいることに安堵した。
それは砦のゴブリン達も同様で、塩水と獲得しているであろう下のゴブリン達からも歓声が上がる。
これで周辺の魔物は死に絶えた。
魔物のいない内に土嚢でも積んで僅かでも水の侵入を減らそうと、兵士達が奔走する。
ここまで水位が上がってしまったらバケツではどうしようもないが、何もしないというのもバツが悪いか。
そんな中で
初めは見間違いだと思った。
しかし、雨のカーテンの先に細長い影が持ち上がったことで、認めざるをえなかった。
「おい、見ろ!!何かが居る」
隣のゴブリンが叫び声を上げながら影を指差す。
見間違いであって欲しかった。
丁度、先ほど見た海蛇をそのまま大きくしたようなシルエット。
それがこちらにゆっくりと首を向けたのが分かった。
「龍だ、龍が居る」
ウウウゥオ”オ オ” オ” オ” オ オ”!!!
内臓を揺らされるような重低音に、視界の海面が揺れる。
雨がさらに激しくなり、海面が上がる。
「……100メートルはあるぞ」
明らかにこれまで殺した魔物とは非にならない脅威に、俺は決断を迫られる。
逃げるか、逃げないか。いや、そもそも逃げられるだろうか。
「屋上の兵士は全て食堂に集まれ!!撤退の指示を出す!」
その声が俺の正気を取り戻す。
伝令兵が屋上を駆け抜けながら、訂正された命令を伝えて回っている。
腰を落としていた
彼らの動きを真似るように俺は背後を追いかける。
一階が完全に水没した砦の中では慌ただしく兵士達が、駆け回っている。水を取り除くためかと思っていたが、彼らの手にはバケツでも土嚢でも無く鋼線を輪のようにまとめたものが抱えられていた。
既に彼らは撤退のための指示を与えられているのだろう。
食堂に集った俺達は呪術を行使する前と同じく机の上に立ったゴブリンに耳を傾ける。
「状況は最悪だ。ここより北の砦は既に放棄された。撤退した兵士の一部がここに流れ着いた。……結論から言えば、現れたのは海龍だ」
兵士達の絶望的な反応から俺は、雨の向こうで首をもたげたそれが張りぼてでないと確信した。
「ここはもうすぐ海に飲み込まれる。お前達は何としても生き延びなければならない!!この危機を後方に伝えるために!そして奴に一矢報いるために!!……撤退だっ!既に用意は終えている。部隊毎にまとまって行け」
悔しそうに吐き捨てる指揮官に従って、俺達は砦の北側、丁度海龍の襲撃とは反対側、その二階の窓辺に集まる。
窓から顔を出すと、二階の直ぐ下まで上がってきた水面に巨大な筏が浮かべられている。
スギの幹をそのまま繋いだようなそれは、2部隊を乗せてもまだ余裕があるくらいに大きい。
「さっきの鋼線は筏のためなのか」
木は森から調達できる。
既に伐採していたものをこちらに持ってきたのだろう。
それでもこの短時間で用意できるとは思えない。
おそらく、水が侵入した時には既に最悪の事態を考えていたのだ。
俺はその一つに乗り込んだ。
この一隻は兵士よりもそれ以外の数が多い。おそらく、初めに兵士以外を乗せたのだろう。
俺は雨の降り注いで表面が滑りやすくなった筏の上を、気をつけながら進んで行って、側面に近い幹の一つに腰掛ける。
直ぐ近くには商人の一団が固まって座っている。
俺はもう一度確かめるように、砦の先を見つめて、海龍の影を思い返す。
「大丈夫だ、大丈夫。生き残れる、大丈夫」
びっくりするほど俺の心情と一致する声がしてそちらを振り返ると、雨で体温を奪われて体を震わせている商人の姿があった。
そんな彼に一人の軍人が近づいて、軍服の上着を着せる。
「あんた、大丈夫か?これでも着ときな」
「……ぁ、有難い」
体を冷やすなよ、と商人へと声をかけてジジガンガは俺の隣に座った。
「こう湿気ってちゃ、気が滅入るな」
「……あぁ」
こちらに視線を向けずに話しかけてくるジジガンガ。
「……無理か?あれは?」
「無理だ」
彼は暗に龍と戦えるか、問いかけて来た。
どう考えても無理に決まっている。
電車に立ち向かえるか聞いているようなものだぞ、それ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます