20話「温かい涙」





眠られないで迎えた翌朝、僕達はなるべく落ち着きのある服に着替え、髪型を整えて、家を出た。


電車が枕木を一つ越す度に、僕は「その時」が迫るのを感じて、気が気じゃなかった。隣に居る雄一も、少し緊張しているのか、もじもじと落ち着かない様子で、前髪をいじったりしていた。




その家は、大きな門の手前にインターホンがあり、門の隙間からは、綺麗に手入れのされた庭が見えた。雄一はインターホンのボタンを押し、すると、キンコーン、という電子音が二度繰り返され、中からこう聴こえた。


“おかえり。入って”


これ以上緊張したら死んでしまうだろう程に、僕はカチコチになっていて、今体を叩いたら、いい音がするだろうなんて、変な想像をしていた。



目の前には、三つの小さなティーカップが並んでいて、ベルガモットの香りが、紅茶から立ち上っていた。


僕はとても顔を上げる事なんか出来ずに、白い湯気が生まれては消える、紅い水面を見つめている。


彼のお母さんは、黒く長い髪を後ろで緩くまとめ上げ、淡くくすんだピンク色で、丈の長いワンピースを着ていた。


目鼻立ちが雄一に似てくっきりとしていて、僕を迎えて微笑んだ顔は、まるで女神のように見えた。


“どうぞいらっしゃい。遠い所をありがとう”


そう言われた時、僕は自分が歓迎されているのが分かって安心したけど、そうすると今度は、彼のお母さんに申し訳ないような、不安な気持ちが込み上げてきた。



僕達二人が席に着いてから、雄一のお母さんがお茶を入れ、カップに注いでからも、しばらくは全員黙り込んでいた。僕は一度顔を上げたけど、雄一のお母さんは僕達が喋るのを待とうとしているのか、唇をむずむず動かしながらも、黙っていた。


「あー。オヤジは?」


“始まった”、僕はその時、そう思った。


「仕事。今日の予定は、って聞いたら、「自分はまた今度」って言って、すぐに出かけていったの」


呆れたような声を出して、くいっと小さなカップを煽り、お母さんは僕達にお茶を勧めた。雄一がカップを手に取ってから、僕も恐る恐るお茶に手を伸ばす。


「大事な日だろ。だから、急に決めない方が良かったんだ」


「仕方ないでしょう?本当はお父さんもいつも通り休みのはずが、急な病欠があって、呼び出されちゃったのよ」


「まあそりゃ、仕方ないけど、今度っていつだよ?」


「さあ」


「さあって…その位、聞いといてくれよ。週休、土日だっけ?」


「ううん、日曜だけ」


「ふーん、そっか。じゃあ、俺から連絡してもいいか?」


「そうした方がいいね。大事な事だし」


「わかった」


そんな、親子の素直な会話と、味わっている紅茶、ダイニングに降り注ぐ窓からの陽差しが、温かかった。それで僕は、ほんの少しの間だけ、ぼーっとしてしまっていた。


「お茶、美味しい?」


不意にそう声を掛けられ、僕は雄一のお母さんを見る。彼女は嬉しそうな顔で僕を見ていた。


「は、はい。とても、いい香りで…美味しいです」


そう言うと、お母さんは、ぱっと花が開くように笑い、ちょっと顎を上に向けた。とても親しみ深い表情だ。


「でしょう?ちょっといいやつなのよ」


「あ、そ、それは、すみません…ありがとうございます…」


僕はどうしてもしどろもどろになってしまい、ごまかしに頭を搔いた。


「そんなに固くならないで。私、あなたに感謝してるのよ」


その言葉にもう一度顔を上げた時、お母さんは笑ってはいなかった。とても真剣な、真面目な顔で僕を見つめていて、それはどこか、許しを乞うような表情だった。


僕は何も言えなかった。“感謝”と口にした彼のお母さんが、何を考えているのか。それを僕の立場から言う事は出来なかった。


お母さんはちょっと俯いて、昔を思い出すように目を伏せる。


「あの頃、この子の父親は、仕事仕事で、この子にも、私にもまるで構わなかった。私は、家庭ってものに、絶望しかけてた…」


気まずそうに、謝るようにそう話すお母さんは、時折ちらりと、雄一を見ていた。


「でも、会社がダメになって、家族でなんとかしなきゃってなってからね、あの人も変わってくれて、少しはこっちに気を向けてくれるようになった…でも、そうなるまでに私はこの子を放ったらかしにしてて、それに気付いた時、とても不安になったの…」


お母さんはこちらを向いて、泣きそうな笑い顔で僕を見た。


「まさか、この子を救ってくれた人が居たなんて、想像もしなかった。しかも、自分の事を放ってまで…」


僕は、小さく首を振ろうとしたけどそれが出来ず、どんな顔をしたらいいのかも分からなかった。


「ごめんなさい…それから、この子を助けてくれて、ありがとう」


「い、いえ、そんな…僕…あ、ありがとうございます…!」


どんな台詞が、あの場面で役に立ったのだろう。僕は心底ほっとして、怖かったり不安だった分が全部涙となり、雄一もスーツの袖口で涙を拭いながら、僕の頭を抱いてくれていた。





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